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結婚しようよ

「……あれ? なんでマサキがうちにいるの?」
 寝起きの声全開といった体で、幼馴染は目をこすりながら階上から下りてきた。
 Tシャツにハーフパンツという格好で、恥じらう様子もないのは今更だろうか。もう正午を回ろうとしている時刻であるにもかかわらず、少女は眠たげな様子で大きな欠伸を漏らしている。彼女が目を覚ますまでの暇潰しに、と家から持ってきていた雑誌は大いに務めを果たしてくれた。いくら休日とはいえ昼半ばを過ぎても彼女が自室から降りて来ないようであれば、その時はさすがに起こすつもりではあったのだけれども。
「っていうかお父さんもお母さんもいないし」
「ああ、急に出掛けることになったんだと」
 自宅のものと同じくらいに見慣れてしまった苗字家のソファに腰掛けたまま、未だすっきりしていないような様子の少女に応じる。
 とはいえ、両目を瞬かせて数秒もすれば、彼女の寝ぼけた頭もこの状況を理解したらしかった。
「……で、マサキにわたしの面倒見てくれって?」
「そういうこと」
 話が早いのは、以前にも度々こういうことがあったからだ。
 なまえの両親は、昔から娘に対して少々過保護な傾向がある。一人娘だということを考えればそんなものなのかもしれないが、彼女だって仮にも自分と同じ中学の二年生なのだ。未就学児でもあるまいに、先ほどその母親から文字通り「面倒見てやってくれる?」と頼まれた時には正直なところ笑いそうになった。
 自分は自分で、今日は練習が休みだった上に、チームメイト達もそれぞれ用事やら何やらで遊ぶ都合もつかなかったのだ。珍しく暇を持て余すことになってしまい、せっかくの機会だからと隣家の幼馴染を連れ出して出掛けようかと考えていたところだったのだが、何の偶然か当の幼馴染宅からこうして出動要請が来たというわけだった。
「もう、あの人たちは本当にわたしのこと子供だと思ってるんだから! マサキだって、別に言うこと聞かなくてもよかったのに」
「いいんだよ、どうせ遊びに誘うつもりだったしな」
 もっとも、この調子ならばどこへ行くこともなく、一日中家の中でのんびりしていることになりそうなのだが。
 丸一日子守りというのも悪くはないだろう。単なる幼馴染と呼ぶには存在の大きすぎるこの少女と二人で過ごすのも、暫くぶりのことだったから。
「毎度どうもご面倒をおかけします」
「……それはいいけど、お前ちょっとはおばさん達のこと安心させてやれば?」
「あっちはあっちで心配しすぎなの」
 それは心配にもなるだろう。
 なまえには昔から世話を焼かされてきた。「なるようになれ」というような事を信条にでもしているのか、自由奔放で後先をあまり考えず、その上どこまでも楽天家と来たものだ。危機感は薄く、窮地に陥ってもその自覚などまるでないかのようにして笑っている、彼女はそういう人間だった。ヒヤリとさせられた経験も呆れさせられた経験も、数え切れないほどある。目が離せない、と思うようになったのは、自分たちがごく幼い頃からだった。
「それにほら、もし何かあってもマサキがいれば大概のことはどうにかなるし」
「……」
 もしかすると、誰より彼女を甘やかしているのはその両親ではなく自分なのかもしれない。
 それでも、これだけ頼りにされては悪い気がしない、というのが正直なところだったし、それはもう昔からのことで、子供心に彼女のことは自分が守らなければと思っていた。それが自分の使命なのであって、そういう立場にいることに対してある種の誇りのようなものを感じていたのだと思う。その根となっている部分は当時からずっと変わってはいないのだが、今では別の想いがあった。
 決して惰性などではなく、こうして見守らずにはいられないことの本当の意味。庇護欲を掻き立てられる理由。それから、鈍感なこの少女が少しでも気付いてくれればという淡い期待。
「やっぱり持つべきものは立派な幼馴染だよね! ……ってことで、今日もご飯作ってくれるんでしょ?」
 ……が、このようにして期待は崩壊と再構築を繰り返すのだった。
 こちらの気もいざ知らず、幼馴染はそれこそ期待に満ちた表情をして「実はお腹空いたから目が覚めたんだよね」などとのたまっている。
「……ったく、しょうがねえヤツだな。何食いてえんだよ」
「カレー」
 返ってきた即答に思わず吹き出しそうになった。
 冗談でも何でもなく「ビーフストロガノフが食べてみたい」と言い出した一回――もちろんその希望は却下になったが――を除いては、今までに難題をリクエストしてくることもなかった彼女ではあるけれど。それにしたって随分とお手軽なことだ。
「お安いご用で」
 言いながらソファを立って、少女の額を軽く小突く。
「ほら、さっさと顔洗って来いよ」
「はーい。……あ、たぶん冷凍庫にシーフードミックスあるよ。昨日アイス出すときに見た気がする」
「へいへい」
「玉ねぎたっぷりでよろしくね!」
「仰せのままに、オヒメサマ」
「やだ、オヒメサマだって」
 困ったお姫様がご機嫌麗しい様子で洗面所の方に消えるのを見送ってから、勝手知ったる台所に足を向けた。


「ほんっと、マサキの料理は最高だよね!」
 テーブルを挟んだその向こう、お望み通りの玉ねぎたっぷりのシーフードカレーに幼馴染は大層ご満悦だった。
 食事が始まってからずっとこんな調子で、幸せそうにスプーンを口に運ぶ姿は見ていて飽きない。なまえの賛辞は毎度ながら大袈裟なくらいに大袈裟なのだが、それでも嬉しくないと言えば大嘘になる。
「お母さんのより美味しいんだから、びっくりしちゃう」
「おばさん泣くぞ」
「でも事実だもん」
 我ながら随分と気に入られたものだ。
 市販のルーを使っている以上は、そこまで差が出るものでもないと自分では思うのだけれども。
「誰が作ったって大して変わんねえだろ?」
「全っ然違う。今までにわたしがどれだけマサキの作ったご飯を食べてきたと思ってるの?」
「偉そうに言うことかよ」
 確かに、どれだけかと聞かれれば、数え切れないほどだろうとは思う。
 そしてその度になまえは「最高」だとか「世界一」だとか「天才」だとかオーバーな言葉を並べ立てて、けれども本人は真面目にそう思っていると言わんばかりの様子で料理を口にするのだ。
「わたし毎日マサキにご飯作って欲しいなあ」
 何気ない風で告げられた言葉に一瞬固まってしまったのは、仕方のないことだと思う。
 おそらく彼女に他意はない。全くもってないのだろう。それは分かっている。分かってはいるのだが。
「……お前、それ……」
「え?」
 毎朝俺のために味噌汁を作ってくれ、なんて言葉をプロポーズにするような男は今時いないだろうけれど、それと同じようなものではないか。立場が逆だとかそういうことはとりあえず置いておいて、こんなことを言われたら普通はそう受け取ってしまうというものだろう。
 案の定なまえはぽかんとした顔をしている。
 彼女のこんな様子に呆れてしまうことなどは今更だけれど、そろそろ少しくらい意識をしてもらうわけにはいかないだろうか。
「……結婚すれば毎日食えんじゃねえ?」
 冗談めかした口調で告げたのではあっても、言葉自体は相当にストレートだ。これでいくらかは彼女に響いてくれるのではないかと、そういう望みをかけたのだったが、
「あー、その手があった!」
 がっくり。
 そんな効果音付きで、思い切り肩を落とすことになったのだった。
「でもさ、サッカー選手になったら料理してる暇なんてないでしょ」
「なるかどうかなんて分かんねえだろ」
「なるよマサキは。絶対」
「……何でお前が言い切るんだよ」
 気恥ずかしさに居た堪れなくなる。
 落胆させられたかと思えば、今度はこれだ。なまえは向けてくる信頼はどこまでも真っ直ぐで、自分自身がそうする以上に彼女が自分を信じてくれているということ、いつだってそれを思い知らされる。
 次の言葉を探し出す前に、スプーンが置かれる小さな金属音がした。
 見れば、彼女の皿は綺麗に空になっている。このタイミングで食べ終えてくれたおかげで助かった。このままこの話を続けることは、くすぐったすぎて耐えられそうにない。
「……おかわりは?」
「いる!」

 お姫様に二皿目をお出しした後で、自分は再び台所に立って使い終えた食器を洗いにかかっていた。
 この家のそれは所謂対面式キッチンと呼ばれるもので、カウンター越しにリビングダイニングを見渡せるタイプだ。要は洗い物をしながらにして幼馴染の食事風景を観察出来るというわけなのだが、それにしても本当に美味しそうに食べてくれる。カレーでさえこんなに喜ばせることが出来るのだから、件のビーフストロガノフでも作ってみせたらどうなるだろう。
「ねえねえ」
「ん?」
 いっそ次の機会までに本当にマスターしてやろうかと思ったところで、なまえは手を止めてこちらに顔を向ける。
「引退したあとで毎日三食作ってくれるんだったら、結婚してあげてもいいよ」
 危うく手から皿が滑り落ちそうになった。
 もちろん泡のせいではない。むしろそのせいにしたいくらいだった。
 何だって今日はこんなに困った発言を連発してくれるのだ。無意識もここまで来ると罪ではないかと思いつつ、手元に視線を落として洗い物を再開させる。そして自分の料理に彼女が認める価値に対して、改めてどうにも複雑な気持ちを覚えるのだった。
「……安上がりなヤツだよな、お前も」
「だってマサキのご飯大好きだもん」
「そりゃどーも」
 そんなに言うのなら、本当に毎日三食で釣ってやろうか。
 ただしそれでは現実的に無理がありそうだから、なんとか朝晩二食で妥協してもらうしかない。そうでなければ、朝のうちに昼食まで作ってしまうか、だろうか。うっかりそんなことにまで思考が及んでしまったのだが、そもそもなまえから言葉が返ってこなかったためにそれを中断させるものがなかったのだ。食器の軽くぶつかる音も聞こえてこない。かといって賛辞の波が始まるわけでもなく。
 再び少女の方に目をやった。なまえは手を止めたままこちらを見ている。カレーを食べたせいなのか何なのかは知らないが、その頬が仄赤く染まっているように見えなくもない。
 彼女が口を開いたのは、どうかしたのかと尋ねる前だった。
「……まあ、好きなのはご飯だけじゃないんだけどさ?」
 今度は本当に、スプーンを取り落とした。