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「……あー、それから苗字。このあと生徒指導室な。下山先生が待ってるから」
週明けの気だるい月曜日、帰りのホームルームにて。
毎度似たり寄ったりの瑣末な連絡事項の後、ついでのような調子で担任がそう言った時、教室には微かなどよめきが起こった。
苗字なまえと言えば、二年生の間ではそれなりの有名人だ。
頭脳明晰、容姿端麗、品行方正。そんな四字熟語が付いて回っている彼女は、同性からは一目置かれ異性からは高嶺の花と評されている。愛想を振りまくようなタイプではなく、むしろ性格は少々キツめな部類に入るのだが、誰に対しても公平に接していて、そのせいかクールビューティーなどと形容されることも多かった。学年切っての秀才ということで教師たちからの期待も厚く、とりわけ彼女を気に入っていたのが、今しがた担任がその名を口にしたばかりである生活指導の教師だった。
「……なあ、いま生徒指導室っつったよな? 進路相談室の聞き間違いじゃねーよな?」
「……あの苗字が?」
クラスメイトたちの、ひそひそと小声で呟く声が聞こえてくる。
一言で生徒指導といってもその方向性は様々であるし、別に悪い意味に限られるというわけでもない。しかし生徒たちの認識としても事実上も、飛葉中の生徒指導室は説教部屋としての機能以外の何ものも果たしていないというのが現状だった。
そういうわけで、本来その場所とは無縁であるはずの存在がこうして呼び出された理由について、クラスメイトたちは多分に好奇を含んだ疑問を束の間共有したのだったが、興味を引かれるとは言っても結局のところは他人事に他ならない。ホームルームが終わってしまえばそこにはガヤガヤとしたいつもの放課後が待っていて、せいぜいドアへと向かうぴんと伸びた背中に不躾な視線を向ける者が数名いたくらいだった。なまえが教室を出て行ってしばらくもすれば、どよめきの残滓は何事も無かったかのように跡形もなく霧散していた。
未だそのことに意識を向けたままでいるのなんて、恐らく自分くらいのものだろう。
といっても、不可解な呼び出しを訝っているわけではない。そもそも自分にとってそれは不可解なことでも何でもなくて、彼女が指導室に呼びつけられた理由などは知りすぎるほど知っているのだ。むしろ自分自身こそがまさにその理由である、と言った方が、より正しいかもしれない。
要するに、なまえと自分とは恋愛関係にある、そういうことだ。
大っぴらにしていないのは互いに取り沙汰されるのを好まないという理由からで、このことはチームメイトにも話していなかった。仲間に隠し事をするのがどうしても嫌なら口止めをした上で話してもいい、となまえは言っていたが、本人にその気がなくともうっかり拡声器になってしまいそうな者がいることを考えると、なかなかそういうわけにもいかないのだった。隠し事といっても、別に後ろめたさを感じてはいないのだし構わない。
ただ、人目を憚ろうとしてはいても、やはり自分たちの年齢や身分や財布の事情等を考えると行動範囲は自ずと限定されてしまうもので、関係が明らかになってしまうのも時間の問題ではあったのかもしれない。そうして、二人で会う約束をしていた一昨日の土曜日に、とうとうその機会はやってきてしまったのだった。若者の集まりそうな繁華街を避けたことが裏目に出てしまったのか、遭遇してしまった相手は例の生活指導教師だったのだけれども。
彼女が呼び出された理由は間違いなくそれだった。
――優秀な生徒が不良どもに悪い影響を受けたら大変だ。なぜなら彼らには名高い進学校、果ては一流大学にまでに行って、学校の名誉になって貰わなければならないのだから。
教師たちのそういう考えは、去年転入してきた一つ上の先輩の件でよく知っていた。しかしまあ翼といいなまえといい、お気に入りの優等生たちがことごとく自分の意に反した態度をとるものだから、下山にとってはさぞ困った話であることだろう。ああしてなまえだけを呼び出した辺り、まだまだ諦める気ではなさそうなのだが。
二日前の事だからもしかすると覚えていないかもしれない、という希望的観測も外れてこうなってしまった以上、彼女は相当不貞腐れて帰ってくるに違いない。
さて、どうやってご機嫌を取って差し上げようか。
「遅かったな」
「……!」
通学路の途中に立って彼女が姿を現すのを待っていた時間は、思ったよりも少し長かった気がする。
まさか自分がそこにいるとは考えてもみなかったのだろう、なまえは驚いたように大きく目を見開いた。確かに驚くのも無理はない。何といっても自分は部活生であるため、彼女と一緒に下校出来るような日は決して多くはなかった。だから都合の付く日には自分の方から彼女にメールをするのが定例になっていたのだけれども、今回はあえてそれを行わずに、こうして曲がり角からなまえが現れるのを待ち構えていたのだ。
彼女の歩いてくる側からは死角になる位置にいたために、ひそかに様子を伺っていたことはまず気取られてはいないだろうが、遠くから見ていても分かるくらいになまえの表情も歩き方も苛立ち全開だった。一体彼女の何を見て、クールだなんだという言葉が出てくるのだろう。自分に言わせれば、こんなに分かりやすい相手もそうそういないと思うのに。
「……待ってろなんて言ってないんだけど」
足を止めたのは一瞬。
吐き捨てるようにそう言うと、なまえは再びつかつかと歩き出した。
あまりにも予想通りの反応に、思わず笑いそうになるのをなんとか堪える。素直という言葉とは対極の位置にいる彼女を扱うことには、もうすっかり慣れてしまっていた。
「何、機嫌悪いの、苗字サン」
早足で歩く横に追いついて言えば、ギロリと睨まれてしまう。
さすがの優等生は教師たちに対する礼儀もそれなりに通しているのではあるが、なまえの性格を考えれば、個人的な交友関係について苦言を呈されることに耐えるのには相当な苦労を強いられたのではないかと思われた。
これは早いところ、発散させてやらなければ。
「どうせ『不良と関わるな』とかそういう話だろ?」
「……」
「別に気にすることねえよ。一緒にいるとこ見られた時から、文句言われんのなんて分かりきってたんだし」
一部の教師たちから良く思われていないというのは、今に始まったことではない。
付き合い始めたばかりの頃は、関係が露呈してしまった時に何かの影響が彼女に及ぶのを気にしたりもしていたのだが、なまえ自身はそういう態度をものすごく嫌った。俺らが付き合ってんのバレたら、お前の立場ちょっとヤバいんじゃねえの。冗談のつもりでそう言ったら、本気で怒られたことをよく覚えている。
決して思いあがっているつもりはないのだけれども、相当惚れ込まれているという自覚はあった。どうしたって、彼女は分かりやすすぎるのだ。
自分が目を付けられていたためになまえが面倒事を被ることになってしまったという結果については、本当に悪いと思っている。それでも互いに離れる気はないのだから、当分の間はなんとか我慢してもらう以外にどうしようもない。その分の埋め合わせは、別の形ですればいいだろう。
「……つーかお前、相手はキューピーだぜ? 今更あいつにどうこう言われようが何とも思わねえよ」
向けられた表情からは未だに険が取れていなかったが、歩く速度だけは少しずつ緩んでいる。
やがて、なまえは不服そうに口を開いた。
「……あんたはそれでいいかもしれないけど、」
「けど?」
「……わたしが納得いかないんだもの」
苦虫を噛み潰したような顔で呟く。
怒り心頭の彼女には申し訳ないと思いつつも、そんな言葉を聞かされてしまっては、下山の言う事など端から気にしていないこちらとしては頬を緩ませざるを得ない。気が立っている彼女は感情のままに口を動かしているのだろう、自分の言っていることが一体何を意味しているのかに、まるで気が付いていないのだ。
柄でもなく自分を果報者だと思ってしまうのはこんな時だった。
素直な言葉で伝えてくれることは殆どない彼女だけれども、こういうところがどうしようもなく。
「……っていうか、あんたの方こそ何でそんなに飄々としていられるのよ!」
「何でって言われてもな」
「そんなだから、人を見る目を養えだなんて言われちゃうんじゃない……!」
なるほどいかにもあの教師が言いそうなことではあるが、嫌味の含まれた説教を受け慣れていないこの少女にとっては応えたらしい。
しかし一体誰のために憤慨しているのか、指摘してからかってやりたい気持ちもそろそろ飽和しそうな気配である。
「ほんっと信じられない。あんまり頭に来たから言い返してやったけど、思い出すだけでも腹が立つんだから!」
「……言い返した?」
「だって、黙っていられるわけないじゃない」
少々不穏な言葉を問い返せば、何か問題でもあるのかと言わんばかりの顔を向けてくる。まさかと思う自分を余所に、そのままの調子でなまえはこう続けた。
「『その言葉そのままお返しします』、って言って帰ってやったわよ!」
「……」
数秒の沈黙。そして、
「!? ちょっと、何笑って……!」
思わず吹き出した。
「なっ、何なのよいきなり! わたしの何がおかしいって言うのよ!!」
「いや、そりゃお前さ、」
なまえに言い返された時の下山の顔を拝んでやりたかったと心底思う。
今の台詞が一体どれほどの威力をもって、あの教師に打撃を与えたことだろう。
「仕方ないでしょ!? だって本当に頭に来たんだから……!」
それが下山に効いたなら、自分にも効いた。
交際相手、すなわち自分を悪く言われたことに腹を立てて教師に刃向かうような真似までしてくれただなんて、可愛いというか困ったというか何というか、どうしてこうも喜ばせてくれるのか。
誰もが憧れる学年の有名人の本当の顔、付いた渾名の不確かさ。それを知っているのが自分だけだなんて、なおさら愉快な話だ。
「サンキュな」
「……何が」
「そこまで怒ってくれて」
「っだから、それはわたしがイライラしたからっていうだけなんだってば!」
別にあんたのためなんかじゃないんだから。
これ以上機嫌を損ねるのは不本意だから、その言葉の説得力のなさには触れないでおくことにしよう。
「……でもまあ、あんまり無理してくれなくていいぜ」
「……?」
たとえば今日彼女の身に降りかかった出来事を、自分のように軽く流すことがなまえに出来ないのは分かっている。
けれども関係を知られてしまった以上、これからも同じような事は何度もあるだろう。その度に怒りを爆発させているようでは、いつか疲れてしまうのではないかと心配でもあるのだ。もちろん怒ってくれる事に関しては本当に嬉しいと思うのだけれど、でも。
「お前に想われてるってだけで、俺には十分だから」
そういうことだ。
それを分かっていてくれればという気持ちが半分と。残りの半分は、単に彼女の反応を楽しみたかっただけかもしれない。
「……ちょ、調子に乗ってんじゃないわよ!!」
なまえの足が止まる。
既に仄赤くなっていた頬が、ひときわ濃い色に染まっていく。
「……ほんと、バカなんじゃないの……!」
絞り出したようなか細い声で、彼女は弱々しく悪態を吐いた。
「顔真っ赤」
「誰のせいよ!!」
「俺だろ?」
「~~~っ!」
バカだの調子に乗るなだのと言いつつも、結局否定はしていないのだ。
優等生は超がつくほど意地っ張りで、それから照れ屋でからかい甲斐があって、クールなどという言葉とはかけ離れた年相応の少女なのである。
「ほら、早く帰ろうぜ」
未だ止まったままだった彼女の手を引いて歩き出す。
てっきりすぐに振り払われるかと思っていたのだが、そうはならなかった。
「……なまえ?」
視線は足元に落とされ、口はへの字に曲がっている。横顔に差した紅色は、引いて行く気配もない。
「……わたしが庇ってやったんだから、ありがたく思いなさいよね!」
――これだから、彼女がかわいくて仕方がないのだ。