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アイズ・オン・ミー
売場での仕事を終えて本社ビルに戻ると、自分たちのオフィスには誰もいなかった。
限定商品の効果もあってかビューティーゾーンが大盛況を博しているおかげで、オープン以来休む間もなく忙殺されている。オフィスが無人というのも珍しかったが、人員の多くが売場の方に割かれているためというのが大きいのだろう。
怒涛のような忙しさはまだまだ終わる気配もなさそうだが――もっとも、そうでなくては困る――売場のシフトを外れて中の作業に移ってしまえば少しはリラックス出来る。一人きりの室内、自分のデスクに座って深く息を吐き出した。
このプロジェクトの大成功も、あの夜の出来事が無ければ有り得なかっただろう。
本当にこんなことになるとは夢にも思わなかった。お伽話のようだ、と自分自身でも口にしたように。
大学時代のあの日から、どうにもならない感情のままに憎しみと悔恨とをぐちゃぐちゃに混濁させて、捕らわれ続けるほどにどす黒く染まっていった今までの月日を後悔していないわけではない。けれど、今はもうそれも終わったのだ。同じコートに立っていたあの頃のように、仲間とチームを組んで戦って、そうして勝つことの出来た今では。
過去は、無かったことには出来ない。出来ないし、するつもりもない。
それがあったからこそ、今に繋がっている。何も変わらないなんてことは本当はなくて、月日の中で誰しもが少しずつ変わっていった結果が、ここにある。かつてのチームメイトのそんな言葉に、自分は確かに頷いたから。
慰労会での二人を見ていて、羨ましいと思ってしまったのは事実だった。
本当に大切にしあえる相手がいる、というそのことに。
誰より理解してくれる、彼らにとっての互いのような存在と出会うことが出来たなら、また何かが変わるのだろうか。過ぎた事をああだったらこうだったらと言っても仕方がない、そんなやり取りは記憶に新しいが、だったら過ぎていない事ならばどうなのだろう。
まだこれからの事をああだったらこうだったらと言っても、やはりそれも空想に過ぎないだろうか。
「ただいま戻りましたー!」
入り口のドアが開かれるのと同時に発せられた声が思考を中断させる。目を向ければ、そこには数日前から出張に出ていた同僚の姿があった。
「お疲れ様です」
「はい、お疲れ様です……って、松浦さんだけ?」
ガラガラのオフィスをきょとんとした顔で見回す彼女に、売場が忙しくて社員が出払っている旨を返す。
すると納得したような声の後には、なぜだか嬉しそうな表情が浮かんだのだった。
「……直帰しないで正解だった……!」
「……は?」
「こっちの話です!」
話はまったく見えてこないが、そう言われてしまっては仕方がない。
ここからは飛行機の距離にある支店まで出向いていた割には、彼女はあまり疲れているようには見えなかった。この同い年の同期にとって、そこへの出張は鬼門だったはずなのだけれども。
長距離の移動ももちろん疲労の原因ではあるが、それ以上に心労が大きいのだという。いわく、向こうの担当者とどうにも馬が合わないらしいのだ。何度か同じ店舗へ出向いている彼女だが、出発前はいつもぼやいているし、帰ってくればやっぱり愚痴をこぼしている。しかしこんな様子を見た限りだと、今回は気疲れもそれほどなかったのかもしれない。
「それより松浦さん」
「何ですか?」
「お土産に和菓子買ってきたんですけど、いかがですか?」
にこにこしながら、手に提げた大きな紙袋を揺らしてみせる。
「実はわたし、早くこれを食べたかったから会社に寄ったんですよね」
だから松浦さんがいてくれなかったら無駄足になるところでした。笑顔のままで言う彼女のそれが、冗談なのか事実なのかは正直なところ分からない。
そしてこちらが返事をしないうちから、「お茶淹れますねー」と早速その気で準備をし始めるのだ。疲れていないどころか、妙に楽しそうだ。あれほど嫌だと言っていた出張先で、何かいいことでもあったのだろうか。
「わたしがいない間に、何かいいことあったんですか?」
「え?」
ポットに向かって湯の音を立てている彼女から、こちらが心の中で抱いていた疑問をそっくり返されて思わず目を白黒させてしまう。
「……何故ですか?」
「なんとなくなんですけど、松浦さん、どこか感じが変わったように見えるから」
「そう……でしょうか?」
「柔らかくなったって言われません?」
――驚いた。
あれ以来の自分の変化は自分が一番よく分かっていたが、それを誰かに指摘されるとは思ってもみなかったのだ。
和解後初めてのミーティングで藤田には確かに不思議そうな顔をされてしまったけれども、それは彼が以前の自分の態度を知っていたからだ。しかし、もともとあのプロジェクトには関わっていなかった彼女は違う。自分と本多が行動を共にしている場に彼女が居合わせたこともない。
あの時の自分は感情のコントロールが不得手になっていたから、もしかするとここで仕事をしている時にも本多のことを思い出して苛立っていたことはあったかもしれない。けれどそうだとしても、彼女がここに現れてからたったの数分で――それも自分の方は大して喋ってもいないやり取りの中で、自分の内に訪れた転換に感付かれただなんて。
「……あ、ごめんなさい、別に前が堅物だったとか、そういうつもりはないんですよ!」
言葉を返せずにいたのを、気を悪くしたと取られてしまったらしい。
彼女は少し慌てた様子で、弁解するように言葉を続けた。
「ただ、なんて言うのかな……憑き物が落ちたって感じ?」
適切な表現だと思った。
自分を雁字搦めに縛りつけていた怨恨は、まさに憑き物と言っていい。過去も過去の清算も何も知らない彼女が口にするには、正鵠を射すぎているくらいだった。
「……よくお気付きですね」
ちょうど緑茶と和菓子を運んできてくれた所で、多少の気恥ずかしさを覚えながらもそう告げてみる。
数秒あって、それが彼女の言葉を肯定しているのだということを本人も分かったらしい。その顔には再び笑みが広がった。ただ、先ほどまでの楽しそうなそれとは違う。まるで、淡い色の花がやわらかく綻ぶような――。
「だって、いつも見てますから」
どくん、と心臓が大きく鳴った。
彼女の声が、頭の中で何度も響く。甘ったるいようなくすぐったいような奇妙な感覚が、瞬く間に意識を浸蝕していく。
「……なーんて! さ、わたしもお菓子食べよっと」
逃げるようにこちらに背を向けて、自身の席へと向かう姿。
意図の掴めなかった台詞の真意。嫌いなはずの出張帰りに、こんなにもご機嫌な理由。
そうだったのか、という思いと、何故気付かなかったのだろう、という思いは、このとき同時に湧きあがっていた。彼女とは同期として一緒に入社して、それからずっと同じオフィスにいたというのに。
いつからだろう。いつからそんな風に、思ってくれていたのだろう。あの憎悪の呪縛から解放されるまでは、周りの世界なんて自分には何一つ見えていなかったのかもしれない。それでも、そんな自分をずっと見つめてくれていたひとは、こんなに近くにいたのだ。
気持ちの片鱗を見せられただけでこんなにも心が浮き立っているなんて、そういう沙汰のなかった数年の間にどれだけ免疫を失ったというのか。
けれど、この際それでもいい。
なぜなら自分はもう、知りたいと思ってしまっている。彼女が自分を見てくれるようになった理由を。そして、彼女自身のことを。
「苗字さん」
「な、なんですか?」
「……お疲れでなければ、今晩食事にでも行きませんか?」
思えば、こうして自分から同僚を誘ったためしなんて入社以来ほとんど無かったような気がする。
何を言われているのかも分かっていない、というような様子で固まられたのはそのせいかもしれない。だが、そんな表情も次第に色を取り戻していく。コマ送りのように少しずつ変わっていく彼女の顔は、両目を瞬かせ、瞠って、驚いたように唇を薄く開き、最後には目元も口元も、緩やかな弧を描いて綻んだのだった。
こぼれ落ちた笑みは、何だかこちらにまで甘く伝染してしまうよう。
「は……はい、喜んで!」
怨嗟の呪いが解けてしまったら、今度は幸せの魔法にかけられたのかもしれない。