Aa ↔ Aa
Mirach
「苗字さん」
「……」
「……苗字さん、あの」
「…………」
何度呼びかけてみても、返事は一向に返ってこない。思わずため息がこぼれ落ちそうになるのを男はぐっと堪えた。
隣のデスクに座っている同僚兼恋人は、朝からずっとこんな調子で不機嫌を貫いている。
同じ会社の同じ部署に属する自分たちの関係は表沙汰にはしていないため、この日の朝も普段通り、他の社員にするのと同じようにして彼女に挨拶をした。ここまではいつもと何も変わりはなかったのだ。しかし、その後数拍の間を置いてから返ってきたのは、思いきり不貞腐れたような顔と「おはようございません」との言葉だった。それから今日一日はろくに口を利いてもらっていない。
基本的にいつも愛想の良いなまえのこういう態度は、自分はもちろん周りの人間にも些か驚きを与えたようだった。とは言え、彼女の機嫌の損ね方はへそを曲げた子供そのものでしかなかったため、誰もそこに深刻な事情が存在するものとは受け取らなかった。同僚からは何をやらかしたんだと笑われ、呆れつつも立場上人間関係のこじれを放っておくわけにもいかないらしい上司からは、残業ついでに仲直りしておけと揃って居残りを言い渡されたのだった。
終業時刻を過ぎた今、オフィスにはなまえと自分の他には誰も残っていない。二人きりで話が出来るという状況自体はありがたいが、会話にならないのではどうしようもなかった。
いったい自分の何が彼女をこうも頑なにさせてしまっているのか、それは何度も尋ねたけれども、当人は「自分の胸に手を当ててよく考えてみてください」と言うばかりで答えをくれない。しかし胸に手を当てようが当てまいが、いくら考えを巡らせてみてもそれらしい原因は見つかる気配もなかった。
「……せめて、理由を聞かせてくれませんか?」
「……」
「俺が何かしてしまったなら謝ります。ですが、本当に何も覚えが……」
そこでようやく、あらぬ方へと背けられていた顔がこちらに向けられる。
それと同時にじとりとした恨みがましげな視線が突き刺さった。不満げな唇はやや突き出し気味にへの字に曲がっている。あまりに子供じみたその表情に、目の前の恋人は本当に自分と同年代の社会人なのだろうかとつい首が傾ぐ思いがした。分かりやすいのはなまえの長所であり短所でもある。そして喜怒哀楽のどの状態にあるかということまでは容易に理解できても、その感情の原因まで推して知れというのにはさすがに限界があった。それが出来るに越したことはないのかもしれないが、今回に関しては白旗を上げるしかない。
そうして、大きな双眸で語られる無言の非難に負けて男が目を逸らしてしまうその前に、机の天板に視線を落としたのは彼女の方だった。やっとで口を開く気になったのは、いつまでも思い至らないこちらの様子に痺れを切らしたからかもしれない。
「……先週、」
「はい」
相槌を打ちながら、先の一週間を振り返るべく思考を飛ばす。会社では特に変わった事もなく普段通りに過ごしていたはずだ。プライベートでも特に何も、というよりは二人で過ごす時間自体をほとんど持てていなかった。彼女の抱えるプロジェクトが忙しくなり始めたことと、自分の方にも引き続き調整が必要だということでなかなか都合を付けられなかったのだ。といっても、同じ部署で似たような仕事をしている自分たちにとっては、こればかりは仕方がないというのが共通の認識だった。むしろ最近は何かと外に出ていることの多い彼女の方が申し訳なさそうにしていたというような具合で、だからこの点に問題があるわけでもないと思う。
「……キクチとMGNとうちの合同で、焼肉パーティーがあったじゃないですか」
ああ、と声が出た。彼女が言うのはもちろん、MGNとのコラボ企画の成功を祝した慰労会のことだ。
なまえはあの場に出席していなかった。ビューティーゾーンがオープンした当初に応援要員として駆り出されていた彼女も慰労会に誘われてはいたのだが、不運にもその日はどうしても抜けることのできない所用と重なっていたのだという。目下彼女が担当しているイタリア物産展の関係で、商社の担当と打ち合わせを兼ねた食事会だったと聞いていた。
「しかしあなたは仕事で……」
それにこの件は本人にも諦めがついていたはずである。確かに参加できないことを大層嘆いてはいたけれども、結局最後には「皆さんで楽しんできてください」と快く送り出してくれたのではなかったか――。そんなこちらの心を読んだかのように、なまえはかぶりを振った。
「別に自分が出られなかったからってむくれてるわけじゃありませんよ。……まあそりゃあ面白くなかったけど」
MGNの金持ち部長が用意したっていう松阪牛、わたしだって食べてみたかったですし。とえらく具体的な心残りを述べたが、しかし問題はそこではないのだと彼女は続ける。
「……松浦さんが女に囲まれてたって」
「……は?」
「キクチの女子社員に大人気で囲まれてたって聞きました!」
そう言うなり、なまえは腕を枕にして机に突っ伏してしまった。
「……わたしが仕事で仕方なくつまらない食事会に行って、仕事で仕方なく下品なエロ中年の機嫌取ってる間に、松浦さんはキクチの女の子たちと仲良くご歓談だなんていいご身分ですね」
もごもごとくぐもった恨み言も、静かな室内では聞き取るのに難儀はしなかった。
下品なエロ中年という言葉は大いに引っかかる、そうと彼女に言わしめるほどの何かがあったのならば放ってはおけないが、それを問い詰めるのはひとまず後回しにしよう。
確かにキクチの女子社員に囲まれていたというのはその通りだが、ひっくり返っても仲良くご歓談などという状況であったとは言えまい。事実はもっと殺伐としていたし、あの時は目玉をぎらつかせた肉食獣に四方を塞がれたかのような心境だった。そしてその肉食獣が欲していた獲物は松浦自身なのではなく、伊勢島デパートの人間しか持ち得ない情報ただそれだけだったのだ。
かわいそうな恋人を蔑ろにしてよその女と楽しく過ごした、などということは意識としても事実としても当然存在しなかったのであり、だからいくら考えてみても彼女の不機嫌の原因に浮かび上がってこなかったのは仕方のない話だろう。そういうわけでなまえは多大な誤解をしているようだが、つまりこれは要するに。
(嫉妬、か……?)
ようやく手に入れた解の正体に、何だか一気に力が抜けてしまう。
その安堵感に混じって、少しばかり不純な喜びが頭をもたげたのを松浦は自覚した。日頃からきちんと言葉で好意を伝えてくれる彼女だから、今まで特に不安を感じたことはなかったけれどもこういう形で執着心を見せられたのは初めてだったのだ。朝から振り回された分の対価としては、十分すぎるくらいに十分だった。なまえが未だ机に伏せっているのをいいことに、つい顔が笑ってしまう。
「苗字さん」
彼女はまた返事をくれない。
ふと、当の慰労会でかつてのチームメイトが繰り広げていた痴話喧嘩が思い出された。なんでも自分に黙って別の男と二人で食事に出掛けられたのが気に食わなかったらしく、悋気を剥き出しにして恋人に不満をぶつけまくっていたのはもちろん騒々しい元キャプテンの方だったが、その様子はおかしいやら見ているこちらの方が恥ずかしいやらで、つい蚊帳の外から「男の嫉妬は醜いぞ」などと冷やかしを入れてしまったものだった。しかし、一瞬だけばつの悪そうな顔を見せたあの大柄な男はすぐに悪戯っぽい笑みを浮かべながら、「んなことはねえ、こいつのそれは可愛いんだ」とこれまた長身の男である彼の恋人を指してとんでもないことを言い出したのである。その時には余所でやってくれと本気で呆れた覚えがあるが、今ではなんとなく彼の気持ちが分かってしまった。これは男だ女だということが問題なのではなく、単純に惚れた贔屓目だとかのそういうものなのだろう。
「……なまえさん」
びく、と肩が動いた。期待通りの手応えに、声を出して笑いそうになるのをなんとか抑えて話を始める。
「誰に何と言われたのかは知りませんが、あの人達にはうちのバーゲンについて聞かれていただけです」
自身を取り囲んだ女子社員のことを先ほど肉食獣と評した通り、聞かれただけだというような生易しい状況ではなく、詰め寄られたとでも言った方が遥かに正しいのだがとりあえずその辺りは省略しておく。今大切なのは、さっさと彼女の誤解を解くことだ。
「……バーゲン?」
突っ伏したままの格好で、顔だけをこちらに向けてくる。訝しげな声を出しながらも、その瞳はすっかり聞く態勢に入っていることを告げていた。
「ええ、要は知って得するような情報が欲しかったんでしょう。他にも伊勢島限定商品のことや、会員優待セールの予定……色々と聞かれはしましたが、そういう話以外は一切していません」
そもそもプロジェクトで関わった人物以外は名前すらも知らないのだ。名乗られたところで端から覚えるつもりもなかったけれど。そうも伝えると、明らかに顔色が変わったのが分かる。
「……本当ですか?」
「もちろん。大体こっちは迷惑していたんですよ。詳しいことは教えられないと言っているのに、あいつら本当にしつこくて……」
どこそこのブランドのキャンペーンはいつだの、次の催事は何だの、ポイント10倍デーをやってくれだのと矢継ぎ早に浴びせかけられる質問と要望にはキリがなかった。おかげで女という生き物がセールだ限定だという単語にどれだけ弱いのかを再認識することになったのだったが、勤務中でもないのにあんな目に遭わされるだなんてもう金輪際お断りだ。
思い返してつい忌々しげな口調になってしまったが、なまえにはそれも浮上の材料になったらしかった。その表情からは、既に険が落ちている。
「俺が親しくもない相手と進んで話をするようなタイプじゃないことは、あなたも分かっているでしょう?」
学生時代から自分はあまり社交的な方ではなかったし、大勢の人間が集まって騒ぐような場も好まない。デパートマンとして接客に立つ身ではあるけれど、営業用の愛想は全くの別物なのである。
だから本当は言外に、あなたは特別なのだということも含めたかったのだけれど。この台詞ではそれには少々足りなかった気がするので、自分にしては珍しくも駄目押しの直球を投げることにした。
「……安心してください。あなた以外の女性に興味なんてありませんから」
目を丸くして二、三度大きく瞬きをしたなまえは、次の瞬間には再び顔を伏せてしまった。けれども今度のそれが不満の体現などでないことはよく分かっている。
――してやったり。そんな思いが浮かんできた。正直なところ今の発言が気恥ずかしくなかったということは全くないのだが、普段はなまえのストレートな言葉につい赤面させられることの方が多いため、この度晴れてちょっとした返礼に成功したというわけだ。そのはずだったのだが。
「……じゃあ男性にはあるんですか? 興味」
「なっ……」
思わぬ角度からの返しに絶句していると、やがてくすくすと笑う声が聞こえてきた。
控えめだったそれは次第に大きくなっていき、ついには肩を震わせはじめる始末だ。からかわれたのだと分かって少しだけ渋い気持ちを抱くも、顔を上げた彼女が見せたこの日初めての笑顔によって、それはたちまち霧散していった。我ながら単純なものだが、なまえの方もすっかり気を良くしてしまったらしい。
パンプスの足が、軽く床を蹴った。椅子のキャスターが小さな音を立てて転がり、自分のそれとぶつかるまで距離が詰められる。
「知ってますか? 松浦さんって、女子社員の間で人気なんですよ」
「……冗談でしょう」
「クールで頭良さそうでかっこいいって。出来る男って感じだって」
これまた随分と勝手なイメージを持たれているような気がしてならない。一応褒められているとはいえ、女子の間で、しかもその手の話題の中で名前を挙げられるというのは、自分としてはあまり歓迎したい事態ではなかった。ただ、そんな話になる度に目の前の恋人が人知れずかわいい嫉妬心を燃やしてくれていたのかもしれないと思うと、それはそれで満更でもない気分になってしまうのだった。
「でも」
細く、しなやかな指先が自分の左手と重ねられた。絡め取られた手は、導かれるままに顔の高さまで持ち上げられる。行為の意図も切られた言葉の続きも読めそうで読めなかったが、それを問うのに松浦は口ではなく目の方を選んだ。
――その時、だった。
彼女の頑是ない笑顔は、そこで唐突に影を潜めることになる。
「……誰にもあげない」
薬指に刻まれた噛み痕に底知れない欲望の色を見て、かわいい嫉妬心などという表現が大きな間違いだったことを思い知る。
ついさっきまで子供のような膨れっ面をさらしていたばかりだというのに、ちらりと覗く舌先は強かに男を挑発していた。――なんていけない顔をするのだろう。本当は疚しい火種なんてずっと前から燻ぶっていて、それは彼女の中で今か今かと爆ぜる瞬間を待っていたのかもしれない。
「……なまえさん」
「なぁに、宏明さん」
間延びした声に煽られて立ち上がる。芝居がかった仕草で首を傾げる彼女の、こちらを見上げている瞳がゆっくりと細められた。身体を離れた椅子の滑る耳障りな音が、ひたと消え失せる。
「……あなたのせいで、仕事をする気がなくなりました」
責任を取ってください。
是とも否とも言わせぬうちに、薄く開かれた隙間に唆されるがままにその唇を塞いだ。振り回されるのも、ここまでで本当にお終いにしてしまおう。翻弄されるよりもする側に立つ方がいいに決まっている、そんなことは誰にも当たり前の話だった。
焦らす間も惜しく突き入れた舌を従順に受け入れるどころか、絡み合わせ歯を立ててくる今日の彼女は随分と攻撃的だ。縋るよりもずっと荒っぽい、抑えつけるかのごとく回された腕は首縄のよう。粗暴な、それでいて執拗な迎撃が脳髄を痺れさせた。
貪り尽くすようなキスの合間にこぼれ落ちる、鼻にかかった甘い声の素直さにふと思う。たとえ彼女があのまま、いつまでも頑なに口を閉ざし続けていたとしても、最後には今と同じ結末を迎えていたであろうことをなまえは知らない。その時にはどうにかこういう展開に持ち込んで、文字通り手と口とを使って不機嫌の理由を吐かせた末、流れに任せて強引に“仲直り”へと傾れ込むつもりでいた、だなんて――。
そんなことは、とても言えない。