Aa ↔ Aa
ぼくらはしあわせになれない
以前に住んでいた部屋とは比べ物にならないほど、今のアパートは古く粗末なものだった。
外観も内部も、ぼろいとでも形容するのが適当であろうというような家だったが、それでも男が一人で生活をするのに取り立てて不自由を感じることはなかった。
あの夜の一件から、誰にも何も告げずに姿を消した自分。
会社からは無断退職になる形で、住んでいたマンションの解約手続きもせずに住み慣れた地を去った。もしかすると今頃は捜索願が出されているのかもしれないが、そう簡単に見つかってしまうものとは思えなかった。たかが一般人ひとりが姿をくらませたくらいで、捜索活動に腐心するほど警察も暇ではないだろう。表向きには何の事件もなかったのであり、松浦宏明という男は何の前触れもなく姿を消したのだ。あの場にいた三人の人間以外は誰もがそう認識しているはずだった。そしてあの一件は未来永劫、他の何者にも知られることはない。痕跡は、それぞれの内に刻まれることになった歪な傷だけだ。
あれから三ヶ月、行く宛もなくふらりと流れるようにしてたどり着いた地方の片田舎で、今はそれなりに落ち着いた暮らしをしている。けれどもこの安アパートにも、そして現在籍を置いている小さな会社にも、いつまでも世話になり続ける気はない。いずれはこの地もまた去ることになるだろう。ただ、今後の身の振り方に関してはまだ決めかねているため、当座のところはここでひっそりと生きていくつもりではあった。
朝起きて出社して、役不足な仕事に一日を費やし、そして帰宅する。その単調な繰り返し。
空虚な日々には怒りも悲しみも喜びもなく、それだけに平穏だった。この地に留まる限りはその平穏が続くはずであったし、いつか新たな行き場を見つけたときも、ここでの何もない暮らしは始まりと同じくらい静かに終わりを迎えるものと思っていた。嵐の気配なんて、少しも感じはしなかった。
捜索活動に腐心するほど暇な警察がいたのかどうかはともかく、事実として彼らは自分の前には現れなかったのだ。
突然に現れたのは警察ではなく、かつての同僚だった。
この日は偶々会社の宴会があった。どこで働いていてもこの手の席は等しく面倒で、解散の合図がかかるや否や挨拶もそこそこに店を出たのだったが、いつもの帰路についたときには時刻はもう十一時を回ろうとしていた。
ため息をつきながら歩く慣れた帰り道は、何ら変わり映えもしない。しかし、その終着点である自宅アパートの前で、松浦は予期せぬ非日常に遭遇することになる。
ドアの前に俯いて佇む、見覚えのある人影。
――まさかそんなことが起こるはずはない。昔の仲間がこの場所を知るわけがない。そう思った。けれども足音に顔を上げたその主は、間違いなく彼女――かつて伊勢島で共に仕事をしていた、苗字なまえその人だった。
あの頃の自分にとって、最も気を許せる相手は彼女だったと思う。自分は彼女を好いていたし、きっと彼女から好かれてもいた。
それでも結局心の全てを明け渡すことはできずに、いつまでも無難な関係をずるずると続けていた。おそらくは、こちらから一線を踏み越えることを期待されていたのだろう。そうと感じた瞬間は何度かある。だが、松浦は最後までそれをしなかった。できなかったのだ。誰より信頼していたはずの相手に夢を潰されたあの時から、自分はもう手放しで人を信じることができない。共に過ごしたはずの時間さえ意味を失くしてしまうほどの裏切りに遭って、また何もかも失った気にさせられるのが怖かったから。
両目をいっぱいに見開き、そして途端に泣き出しそうな表情になりながら飛び込んできた痩躯を反射的に抱きとめたとき、ふと気が付いた。こうして触れたのは初めてだったけれど、三ヶ月前にはこんなにやつれてはいなかったはずだ。
黙って姿を消した自分に、なまえは何も聞かなかった。何も責めなかった。ただ、痛いほどの力でこの身に縋りながら、震える声がひたすらに「会えてよかった」と繰り返した。
それが、ひどく苦しかった。
憔悴しきった訪問者を追い返す気など端からありはしない。この近辺には、女が一人で安心して泊まれるような施設もないのだ。
ソファのない部屋、床に座ってローテーブル越しに向かい合う。部屋の中に招き入れてからのなまえはあまり自分から口を開こうとはしなかった。何を話していいのか分からずにいる、というようにも見えたが、それ以上に長時間の移動が応えているのかもしれない。夕食はとったのかと聞けば、電車内で栄養食品を食べたからそれで十分だと答えた。
「苗字さん」
松浦と会ったところで目的は達成したのかもしれないが、その後どうするかについて考えてはいなかったのだろう。だが、スーツに通勤鞄という出で立ちで日の暮れた後にこんなところまでやって来るというのは、無謀というよりもまるでこちらの居所が分かっていたかのような行動だった。責める意図はなく、純粋な疑問として何故ここが分かったのかと尋ねたが、彼女は「長い金髪の占い師が」としか言わなかった。占いの類は当てにしてはいないが、不可思議な力や超常現象の存在それ自体については特に否定するつもりもない。どちらにしろそれ以上の答えを得られる気もしなかったので、一応はそういうことで納得しておいた。
決して手出しはしない、こんな粗末な部屋でも良いなら泊まっていけばいい。そう告げると、なまえは驚くほどすんなり頷いた。この種の台詞を真に受けるような女はさすがに危機感がないと言わざるを得ないが、彼女とて馬鹿ではないのだから、あるいはそうなってもいいと思っているのかもしれない。ただ、本人がどう受け取ったかは別に、自分としては本当に言葉通りのつもりだったのだ。
「絶対に何もしませんから。使ったらどうですか」
「……いいんです」
苦しげな声音は、そんなことを案じているのではないとでも言いたげだった。
使ったら、というのは浴室のことだ。差し出したバスタオルと着替えこそ一応受け取りはしたものの、なまえはいつまでもこの場を動かずにいる。初めは、警戒しているのか単に遠慮をしているかのどちらかだと思っていた。だから、先にどうぞという言葉にも従った。けれども。
「その間に、あなたはまたわたしの前からいなくなるかもしれないもの」
静かに告げられた言葉が心を抉った。
このとき初めて、彼女は明確なかたちで松浦を責めたのだ。
「……心配しなくても、俺はどこにも行きませんよ」
「……」
揺れる瞳は、彼女の迷いをそのまま映し出していた。
長旅での疲労を洗い流してしまいたい欲求だって当然あるだろう、できることなら松浦の言葉を信じたいとその目は言っている。それと同時に、信じることが怖いとも。もう二度と同じ思いはしたくない、何も失いたくなんかないと、そうも言っている。
自分が彼女にしたことと、本多のチームメイトへの罪は、もしかしたらさほど変わりはしないのかもしれないと今更ながらに思った。
名前の付かない関係だったとはいえ、互いの気持ちは知っていたのだから、なまえが裏切られたと感じていてもおかしくはない。それでも松浦を恨んだり憎んだりすることなく、こうしてここまで来てくれたのは彼女の強さなのだろうか。震える小さな肩を見ながら、そんなことをぼんやりと考える。
しばしの逡巡の後、やがてなまえは口を開いた。
「……松浦さん」
少しだけ、お願いがあるんですけど――。
「……痛くないですか?」
腰は床につけたまま、重ねられた両手だけが身体の後ろで大判のハンカチに括られている。
手首を束ねる輪の中にはさらにネクタイが通されていて、その終端はベッドの脚と繋がれていた。
ネクタイを貸してください、と言われた時から、もしかしたらとは思っていたのだ。けれど拒む気にも抗う気にもならなかった。そうすることでなまえが安心できるというならそれでよかったし、こんな真似をさせるほどにまで彼女を追い詰めたのは自分なのだ。
「大丈夫です」
実際、他人を緊縛したことのある身から言えば、拘束としては相当に拙いものだった。結び目はそれなりに固そうな感触ではあったが、あそびがあるために無理矢理捩ればすっぽりと抜けてしまうかもしれない。そもそも両足は自由なのだから、その気になればどうとでもなる。彼女の性格を考えるに、全身をきつく縛り上げるようなことなどは到底できなかったのだろう。元々こんな不穏な行為とは縁のないような人物である。恐怖と罪悪感との間で葛藤した結果が、この緩い桎梏というわけだ。
緩かろうがきつかろうが、松浦にはどちらでも同じことだった。どちらにしろ、ここから逃げたりするつもりなどないのだから。
「……本当に、本当にごめんなさい。だけどちょっとだけ、そのまま我慢しててください。すぐ戻りますから……」
傍らから立ち上がると、なまえは頼りない足取りでゆっくりと浴室の方へ向かっていった。途中何度も、こちらを振り返りながら。
――縛ったことはあるが、縛られたのは初めてだな。
あの夜。自分が去った後で、彼らはどうしていたのだろう。
傷つけるためだけに及んだ暴虐は、結局虚しさ以外の何も置いてはいかなかった。
本多が自分を裏切り、色褪せない憎しみをこの身に植え付けたように、本多の心にも消えない傷をつけてやりたかった。何も手出しができないままに大切なものが損なわれる、その悔しくて苦しくて死にそうな思いを一生抱えさせてやりたかった。詰って憎んで罵って、夢を奪われた自分たちチームメイトと同じ気持ちを味わわせたかった。自分が抱いているのと同じくらいの憎悪と、憎み続けることの苦しみとを、独り善がりの正義感を振りかざすあの男に思い知らせてやりたかった。
けれども、本多の恋人がそれをさせなかった。あの男にとって最も大切な、だからこそ目の前で傷つけた当の相手が、憎悪の呪縛が本多に降りかかることを許さなかったのだ。
佐伯克哉という男が、本多を変えた。
あんな目に遭ってもなお恋人の心を守ろうとした、その想いに絆されて、本多は松浦を憎み続けることを選ばなかった。――克哉が側にいてくれるから。お前は間違っていないと言ってくれるから。だから、たとえ俺のせいでどれだけ克哉が傷つくことになったとしても、俺は決して克哉から逃げたりはしない。本多が口にしたのは、自分が欲しかったものとは違う、そんな決意にも似た言葉だった。
もしも彼らのように、互いを何より大切に想える存在が自分にもいたとしたら。今なお引きずっている空虚な思いなど、この手に掴まされずにいられただろうか。
もしも頑なに守っていた一線を踏み越えて、無難な関係を打ち壊して、彼女に――なまえに何もかもさらけ出すことができていたとしたら。自分たちもあんな風になれていただろうか。憎悪も苦痛も飲み込んでしまえるほどの強い想いを重ねることができただろうか。あんなことには、ならずに済んだだろうか。
ため息を吐いて、松浦はかぶりを振った。
そんなことを考えたところで、何にもならない。起きてしまったことは二度と変えられない。全てはもう、終わったことだった。
十五分も経たないうちになまえは怯えたような顔で戻ってきて、こちらの姿を視界に捉えるなりすぐさま駆け寄ってきて枷を外しにかかった。結び目をほどいている間ずっと、彼女はごめんなさいと繰り返していた。
手持ちの中では最もサイズの小さい着替えを貸したはずだが、それでも彼女にはかなり大きかったようだ。Tシャツの袖口、ハーフパンツの裾から白くほっそりとした手足が覗いている。掻き立てられたのは劣情ではなく、憐憫にも似た感情だった。
「――!」
自由になった手で、痩せた身体を抱きしめる。
何もしないという約束は、これで反故にしたことになってしまうだろうか。だが、本当にこれだけだ。どうしても抱きしめたいと思って、そうせずにはいられなくなって、けれどもただそれだけだった。
なまえは一瞬だけ身を強張らせたが、やがておずおずと背中に腕が回される。確かめるようにして、指先に力が込められたのが分かった。爪が食い込むほどの強さにまでなっていることには、きっと気付いていないのだろう。小刻みな震えが直接に彼女の怖れを伝えてくる。心音が共鳴するほどの距離で触れ合っていても、自分にそれを和らげてやることはできないのだ。
同じボディソープの香りが、なまえにはどこか似つかわしくないように感じた。
「……苗字さん」
抱擁を解いても、小さな手は縋るようにしてこちらに添えられたまま。
自分のそれと交錯する視線はひどく弱々しいのに、深々とこの身に突き刺さる。
「……いや……すみません、何でもありません」
「……」
「……あなたもお疲れでしょう。そろそろ休んだ方がいい」
自分は床で構わないからベッドを使って欲しいと告げると、なまえは眉を歪めて首を横に振った。
――まただ。シャワーに向かおうとしなかった時と同じようにして、彼女は自分の知らないところで松浦が姿を消すことに怯えている。寝ている間に忽然と、だなんて小説でも事実でもよくある話で、一般的な可能性としては入浴中のそれよりも余程高いことだろう。
「不安なら、また俺を縛ってもいいんですよ」
はっと息を呑む音、傷ついたような表情。それが口にしてはいけない台詞だったことは間違いなかったが、後悔したところで遅い。やだ、と、ついに目尻に涙を浮かべた彼女の、消え入りそうな声が微かに空気を震わせる。
「だって……だってわたし、本当はあんなことなんてしたくなかった……! だけど……っ」
なまえは唇を噛んだ。
言葉では、もうどうにもならない。――そうだ、目に見えないものが信じられないのは、自分も同じではないか。
「……では、こうしましょうか」
床を立ち、彼女にもそうするように手を引いて促す。ベッドに並んで腰掛けてから、つい先程まで手の自由を奪っていたハンカチを拾った。
これから束ねるのは自分の両手ではなく、自分の左と彼女の右。
指を絡め合わせて、重なった手首に枷を掛けていく。片手での作業に少し難航していると、なまえは黙って手伝ってくれた。でき得る限りに固く何重にも、鎖のように巻きつけて強く強く縛る。少しでも彼女が安らいで眠れるように、決して外れてしまうことのないように。
どこへも行かないと告げた言葉は偽りではなかった。けれどもそれが彼女に届く日は、きっといつまでも来ることはない。
「……これなら、安心して眠れそうですか?」
「……松浦さん」
窮屈なベッドに二人で身を横たえる。
朝が来て目を覚ましても、結んだ手は強く繋がれたままで、自分も彼女も確かにここにいることだろう。けれどそれ以上のことは分からない。これから二人がどうするのか、どうすべきなのか、どうしたいのか。明日になれば何かが変わるのかもしれないし、そうでないのかもしれない。もしかしたら、二人で肌を重ねて熱を与え合うようなこともあるのかもしれない。
「好きだったの。ずっと好きだった」
「俺もですよ」
それでも多分、何もかもがもう遅かったのだ。