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渇望

 彼のことは自社の人間として本当に尊敬している。
 それは、わたしが部下として彼の下に配属される前からそうだった。御堂孝典という男の顔も声も性格も知らないうちから、ただ異例の早さで出世したという彼の功績のみを聞き及んでいた時から、そうだった。
 彼の端整な顔を知り、凛然たる声を知り、完璧主義で尊大な性格を知った後も、やはりわたしは彼を上司として尊敬していた。
 胸の内にあるものなんて、畏敬、敬服、それだけだ。それだけだった。そうであるように努めていた。それが自分を守るために必要なのだということを、わたしは知っていた。彼と最初に顔を合わせた時から今までずっと、脳内で鳴り始めた警鐘は一度も止むことをしなかったからだ。
 ――この人は危険だ、と。

「……いい眺めだな」
 思い知ったのは、初めて追い詰められたとき。
 惹かれてはいけない、だなんて、土台無理な話だったのだ。
 理性も自制心も何もかも、この人の前では全てが意味を為さない。
 彼と二人きりになってしまえば、真面目で優秀ぶった部下のわたしはもう何処にもいなくなる。
 背中を支えるのは黒革のソファだ。本来ならば商談で使うはずのそれに、わたしの身体はだらしなく投げ出されていた。高い天井は僅かしか視界に入らない。無遠慮に圧し掛かっている彼との距離が近過ぎるからだ。見下ろしてくる視線に、どうにも落ち着かなくさせられる。
 両の手首は彼の片手によって、頭の上で器用にひとまとめにされていた。ぴったりとソファに縫いつけられたまま、空いた方の手に顎を掴まれる。彼はいつもそうだった。いつだって、わたしから徹底的に自由を奪おうとするのだ。
 そんなことをしなくたって、元から逃げたりなんて出来るはずもないのに。
 呼吸を奪うような荒々しさをもって、唇は強引に塞がれる。差し込まれる熱が中で暴れた。
 蠢く舌に自分のそれを絡ませながら、溶かされかけた頭で考える。いつからわたしは、こんなにはしたなくなってしまったのだろう。こんなにどうしようもなく、この人を求めるようになってしまったのだろう。
 唇が離れ、端から溢れた唾液を舌先で拭われる。肌を滑る感触に、ぞくりと背が震えた。
「み、どう、さん……っ」
 名を呼んだ声は思った以上に情けない。喉の奥で彼が笑った。
「どうした? まさか、この程度で満足した訳ではないだろう?」
 手枷が解かれた。途端に、自由になった両腕は目の前の人に触れようとして勝手に動く。
 彼の言う通りだった。
 足りない。キスだけでは足りない。浅ましいわたしは、あんなに熱っぽい口づけを受けてもなお満足できないままでいる。
「……そうだ。もっと、私を求めてみせろ」
 締まらない唇を割って、長い指が突き入ってくる。
 どう受け入れるべきかなんて、頭で考えなくても既に身体が覚えてしまっていた。唇で食むように咥えこんで、指先から付け根までゆっくりと舌を這わせる。そこからは味なんてしないはずなのに、口内が甘く痺れるのはわたしがおかしくなってしまったからだろうか。こぼれ落ちる下品な音でさえ、互いの劣情を煽る材料になった。
 愉しそうに目を細める彼は、余裕を見せているようでありながら恐ろしいくらいの獣性をぎらつかせている。
 欲されている、などというような生易しいものではなかった。
 彼はわたしを支配し、陥落させ、全てを奪おうとしているのだ。

 ああ、でも、それでもいい。もうそれでいい。
 全部この人にあげてしまいたい。

 やがて抜かれた彼の指が、濡れて艶めく様はひどく卑猥に映る。
 名を呼ぼうとした声は奪われ、それが離れれば、至近距離から注がれる獰猛な光が容赦なくわたしを灼いた。
 わたしはもう、早く触れたくて仕方がなかった。早く、彼に融け込んでしまいたい。そうすることで、欲望の閃く瞳の向こうにあるものを知ることが出来るのならば。
「なまえ」
 構わなかった。
 供されようとも。
「……欲しいか?」
 ――答えなどたったひとつしかないことは、あなたが一番解っているくせに。