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 確かに、それは不可解なことであるのかもしれない。
 仕事の出来る人間を見て不愉快だと思ったことなど、今までに一度もなかったのだから。
 管理職という立場にもなれば、共に働く相手として優秀な人間の方を好むのは当然のことだ。上司も部下も同僚も、そうであればあるほどいい。
 それなのに自分は今、ある日突然人が変わったように手腕を発揮し始めた部下に対して、否定出来ない悪感情を抱いていた。

 以前から、彼女に苛々させられることはあったのだ。
 能力は決して低いというわけではない。何といってもMGNの花形部署である商品開発部の第一室に配属されたくらいなのだし、ポテンシャルに関しては自分も相当評価している。ただ、彼女は自身のそれをどうにも生かし切れていないのだった。
 たとえば計画書を作れと言ったり、あるいは問題の解決策を立案しろと言えば、なかなかの成果を上げてくる。しかしながら、プレゼンをやらせてみたり他部署や上の説得に回してみたりする――要するに人前で弁舌をふるわねばならない場に出してみると、こちらの方面はてんで駄目なのだ。
 もともとの性格なのだろうが、気が小さくて押しも弱いためにはっきりと自分の意見を主張するのが不得意で、そのうえ上がり症の気もある。まだ彼女のそういう所を十分に理解していなかった頃、新製品の社内コンペがあった際に部代表としてその担当にさせたことがあったのだが、正直目も当てられないことになった。その後思いきり叱責した時は、彼女は半泣きになって平謝りしていたような記憶がある。
 いくら優れた能力を持っていたとしても、人前でそれをうまくアピール出来ないのではどうしようもない。もしも彼女が多少の度胸と雄弁さを持ち合わせてさえいれば、今よりもずっと多くの人間から認められることが出来ていたはずだった。気の弱さゆえに、彼女自身の功績だったはずのものが別の人間に持って行かれているという様を見たのは一度ではない。まるで自分から好んで踏み台になっているかのようだった。
 自分には、それが許せなかったのだ。
 認めた人間が、才能を埋もれさせてこんな立場に甘んじていることが腹立たしかった。だから彼女に苛立っていた。
 ――今までは。

『聞いたか? Rコーポレーションの提携先、うちに決まったんだと』
『ああ。あれって苗字さんの功績なんだろ? 彼女、大人しそうに見えて意外とやるんだな。さすがは御堂さんの下にいるだけあるよ』
 社員のそんな会話を耳にしたのはもう一週間も前のことであるのに、未だに思い出されてはその度に舌打ちをしてしまう。
 Rコーポレーションは主に製薬事業を中心に展開している米国の大企業だった。それが今回、日本市場対応への足掛かりとして商品開発部門での業務提携先を探していたらしい。そしてその候補に挙がったのが、自分たちMGNとそのライバル企業に当たるバイオリフレクションだった。
 取引を担当していたのは自分だ。だが、この大企業との提携は大きなメリットとなるため、バイオ側も相当な好条件を提示しているらしく、二社間の契約争いは相当激しいものだった。正直に言えば、相手に数歩のリードを譲っていたのも確かだ。あまり考えたくはないことだが、競り負けてしまうことも十分あり得る――だが、そんな状況を打開して見事に契約を勝ち取ったのは、あろうことか苗字なまえその人だった。
 知らせを受けたのは、自分が別件で出張している間だった。
 "Rコーポレーションとの提携契約を取りました。"
 電話越しにそう告げられた時にはいったい何の間違いかと思った。ディスプレイに映し出された名前は確かになまえのものだったのに、出てみればそれは全く知らない女の声であるかのようだった。「詳しいことはお戻りになり次第お話します」とその冷たい声は言い、そして電話は一方的に切られたのだった。
 そんな事、起こり得るはずがない。
 この自分でさえもなかなか締結まで漕ぎ着けられずにいた契約を、あの小心者のなまえが成立させたなど。
 まさかと思いながら出張先から帰社すると、既に社内はRコーポレーションとの提携決定の話題で持ちきりだった。大隈専務からはよくぞ優秀な部下を育ててくれたと褒められたほどだったが、それでもまだ自分には、契約締結の立役者がなまえであるということは信じられなかった。
『お帰りなさいませ、御堂部長』
 そう。
 執務室で自分を出迎えた彼女が、あの時の電話の女と同じ温かみのない声を発するまでは。

 契約成立に至った経緯を別人のようにてきぱきと説明する彼女は確かに苗字なまえという人間ではあったのだけれど、それは自分の知っている彼女ではなかった。
 Rコーポレーションの提携先としてMGNが選ばれる決め手となったのは、なまえが見つけてきたバイオリフレクションの不祥事とその隠蔽の証拠だったらしい。彼女が一体どこからどうやってそんな情報を入手したのか、ということも全く分からないのだが、それ以上に彼女の性格を考えればそのような汚い手段に出られるとはとても思えなかった。
 けれども、その全ては厳然たる事実だった。
 以来彼女は見違えたように積極的になった。人前でも堂々たる態度で仕事に臨み、それまでの気の小ささが嘘のようだと感じさせるほどに。
 悪いことではない、むしろそれは喜ばしいことであるはずだ。
 自分だってそれを望んでいた。彼女が日陰で才能を腐られてしまうことを好ましく思っていなかったし、いつかは彼女の弱点を克服させて、活躍の場を広げてやりたいと考えていたはずだった。だが――いや、だからこそ。
 納得がいかない。
 人間が一日にして突然変わることなどあり得ない。
 そんなことを――自分の知らないなまえなどを、認めるわけにはいかなかった。


 ――コンコン。
 軽いノックの音が、思考の海から自分を現実へと引き戻した。
 どうぞ、と返事をしてすぐに、執務室のドアは躊躇いもなく開かれる。
「失礼致します」
 現れたのはなまえだった。
「……君か」
 渦中の人の姿に、つい不機嫌な声が零れる。
 しかし彼女は全く気に留めた様子もなく、カツカツとヒールの音を立ててデスクの側までやって来た。
「明日の会議の件でお話が」
「……」
「部長?」
「……悪いが後にしてくれないか」
 数度瞬きをしてみせる、そんな仕草でさえわざとらしいと思えてしまう。こんなことは今までなかった。けれども彼女の行動の全てが、どうしようもなく自分を苛立たせるのだ。
「かしこまりました」
 何故、突然彼女は変わってしまったのだろう。何が彼女を変えたのだろう。
 冷静沈着で何事にも動じなくなったならば、人前に立つのも憚らない。多少不遜になったような気さえする。
 そしてそんな数え切れないほどの変貌に加えて、一つだけ直接目に見てとれる相違があった。
「では、資料をこちらに置いておきます」
 内面の変化に比べれば、ごく些細なものではある。
 しかし自分には、それが妙に気に掛かっていた。
「……苗字くん」
 こちらを振り向いた彼女とぶつかる視線、それを隔てる一枚の薄いレンズ。
 ついこの間までは身に着けているのを見たこともなかった、シンプルなデザインの眼鏡がそこにはあった。
「何でしょう?」
「……君は目が悪かったのか?」
「いえ。……この眼鏡のことをおっしゃっているのでしたら、単に気分を変えたかっただけですが」
「……」
 もしかすると、彼女が変わってしまった元凶はそれにあるのではないだろうか。
 そんな考えに取りつかれたのは今が初めてというわけではないが、最初のうちはまさかと思って否定していた。たかが眼鏡一つが、人間をこうも変えてたまるものか。彼女の急激な変化を受け入れられずにいるあまり、単に非現実的な妄執にとらわれているだけなのだ、と。
 けれど日を追うごとに、それを振り払えなくなっている自分がいた。
 どうかしている、とは思った。
 それでも気が付いたら、全ての原因をあの眼鏡に帰さずにはいられなくなっていた。
「これが何か?」
 彼女はこんな口の利き方なんてしなかった。
 いっそ耳障りなほどに、はきはきと喋ったりしなかった。
 苗字くん、と呼んでやれば緊張したように姿勢を正し、時には嬉しそうな表情さえ浮かべることもあったというのに。
 ――気に入らない。
 これ以上はもう、黙って見ていることなど出来ない。そう思った時には、既に椅子から立ち上がっていた。
「……何のつもりです?」
 内面が変わろうとも所詮は女だ。
 力任せに肩を掴み、壁際に押しやるのは造作もないことだった。
 しかしなまえは怯んだ様子など欠片ほども見せず、ただひたすらに迷惑そうな顔を向けてくる。――いったい誰だ、この女は。
「……部長。放していただけ」
「黙れ。動くな」
 こんなものはなまえには似合わない。
 抵抗する間も与えず片手を顔へと伸ばし、掠め取るようにしてその眼鏡を奪い取った。

「っ……!」
 途端に彼女の足がよろけた。
 反射的に閉じられた瞳はしばらくそのままで苦しげに顔を顰めていたが、やがてなまえはゆっくりと目を開いた。
「……み、御堂部長……!?」
 上擦った声、慌てたように赤くなる頬。
 再び至近距離でぶつかった視線の、どうしようもない頼りなさ。
 彼女から眼鏡を奪ったのは感情のままの行動だった。本当にこうなることまで予想してはいなかった。だが、いっそ願望と呼んだ方が当を得るような、現実離れした推測の正しさは証明されてしまったのだ。そこにいたのは、紛れもなく自分の知っているなまえだったのだから。
「……あ、あの、部長」
 恐縮しきったような声でさえ、懐かしくてたまらない。これこそが自分の望んでいた彼女の姿だった。
「それを、返していただけませんか……?」
 それなのに、彼女はそんなことを口にする。
 指先で掴んだままの眼鏡が、呼応するかのように鈍い光を放つ。
 ――やはり、気に入らない。
 拒否の言葉を返す代わりに、その無機質な物体を思い切り床へと投げつけた。
「!? なんてことを……!」
「目が悪いわけではないのだろう。ならば必要ない」
「でも、わたしにはあれが要るんです……!」
 責めるような目が見上げてくる。
 "本当の"彼女のこんな表情は、今までに見たことがなかった。眼鏡越しの迷惑がった顔よりも、こちらの方が遥かに自分を揺さぶった。
「君には不似合いだ。外していたまえ」
「そんなことを仰られても困ります……!」
「口答えするな。君は私の言うことが聞けないのか?」
「だって、あれがないとわたしは…………、っ!!」
 頑として譲らない姿勢は彼女らしくもなかったけれど、その抵抗は突然呆気なく終わりを見せることになる。
「苗字くん!?」
 彼女の身体は再びよろめき、足に力が入らなくなったのか、膝を折ってずるずると床へ崩れ落ちたのだ。
 Rコーポレーションとの契約が成立して以来、自分もそうだが彼女も相当オーバーワークの気があった。あの眼鏡のせいなのか彼女が疲労を表に出すようなことはなかったが、内実まともに休んでいなかったのかもしれない。
 座り込んだ彼女の顔色をうかがうように、自分も身を屈める。
 こちらが言葉を口にする前に、か細い声が何かを呟いた。
「……て、ください……」
「……何?」
「……返してください。だめなんです。あれがないと、わたしだめなんです。お願いですから……」
 悲痛な顔で訴えてくるなまえの瞳から、静かに涙が零れ始める。
「あれが、ないと……、また、迷惑……かけちゃう、から……っ」
「……何を……」
「もう、足手まといになるのは嫌……! わたし、だって……っ、部長の役に、立ちたい、ん、です、」
 もう迷惑は掛けたくない。役に立ちたい。頼りにしてもらえるような、そんな部下になりたい。
 時折嗚咽を交えながら、彼女はそれを繰り返す。
「……あれさえあれば、わたし……、何だって、出来るんです……! ……っ、だから、」
 かえしてください。
 その一言が、止め処なく続いた彼女の最後の嘆願だった。
「駄目だ」
 それ以上の言葉を聞く気など、もはや自分にはなかったから。

「……み、どう……ぶちょう……?」
 抱きしめた身体は見た目以上に痩せていた。
 "あちら側 "の彼女は自身の体調を顧みることもしなかったのだろう。もっと早くこうするべきだったと、今更ながらに悔やまれた。
「……あんなもの、君には無用だ」
「……でも……っ」
「何と言おうと、あの得体の知れない眼鏡に頼ることは二度と許さない。君に必要なことは、全て私が教えてやる……!」
 強張る痩躯を拘束する腕に、思わず力が入る。
「あんなのは……君じゃない」
 どれくらい声を聞いていなかっただろう。
 どれくらい素顔を見ていなかっただろう。
 冷たい声と硬い表情は、自分を苛立たせるばかりかこの身を切った。
 いつものように、彼女が笑ってくれなければ。
 どこか控えめな、それでいて心が凪ぐようなあの笑顔がなければ、どうにも落ち着かない。
「私は君を迷惑だと思ったことなどない。……ただ、君が気の弱さゆえに、折角の能力を殺していることに腹が立っていただけだ」
「……部、長……」
「……本来ならば、君はもっと評価されるに値する人間だ。だから私は、君を周りに認めさせたいと思っていた。……だが、」
 あの彼女は違う。
 あれは今まで自分に付いて来てくれたなまえではない。
「こんな形を望んでいた訳ではない……!」
 彼女がいつだって自分のために尽くそうとしてくれていることなど分かっている。
 人前で上手く振る舞えない自身をひどく責めていることも、それをどうにか改善しようと苦心していることも知っている。確かにそれは未だ実を結んではいなかったし、自分たちがいるのは努力をしているという事実だけで許されるような甘い世界ではない。
 けれど彼女は自分が見込んだ人間だから。これからもずっと傍らで、自分と共に在って欲しいと思っているから。
「私が責任を持って君の面倒を見てやる。君を導くのは私の仕事だ。眼鏡だろうと何だろうと、君に干渉することは絶対に認めない」
 宣言する言葉は、まるで懇願でもするかのようだった。
 それでも、腕の中の強張りは確かに解けたのだ。
 拘束する力を僅かに緩める。やがて涙に濡れた顔が、ゆっくりと上向いた。
「……分かったか、なまえ」
 はい。
 強く頷いた彼女に、ようやく待ち望んだ笑顔が戻った。