Aa ↔ Aa

Sois mienne.

 ぼんやりした意識の中、優しく名を呼ぶ声が聞こえた気がした。
 広いベッドの上で目を覚ましたこの時間は、朝と呼ぶには僅かばかり遅いかもしれない。瞼の向こうに感じる光は明るく、陽は既に大分高い位置にあるようだった。
 眩しさを避けるように半分だけ寝返りを打ち、なまえはうっすらと瞳を開く。数度瞬きを繰り返し、やがて重い瞼を最後まで押し上げた。傍らで体温をくれる男が、まだどこか不鮮明な視界に映る。彼は目を閉じたままだった。やはり、呼ばれたように感じたのは夢だったのだろう。
「……おはようございます」
 男の肌に頬を寄せる。
 思えば、自分の方が先に目覚めるのは珍しかった。
 もともと朝には滅法弱いのだ。自宅で休もうが、こうしてこの男の部屋に泊まっていようがそれは変わらない。料理をしない彼のために粗末ながらも朝食くらいは用意出来るから、なんとか自力で起きられるようにといつも念じるのではあるけれども、一度も上手くいったためしはなかった。そうして結局、自分好みのミルクをたっぷり入れたコーヒーを片手にした彼に起こされるのが常だったのだ。
 端正な顔に、そっと手を触れる。
 かつては、自分はただの部下でしかないと思っていた。それだけで十分であるはずだった。けれども今は、他でもない彼自身の望みによって、こうしてすぐ傍に在ることが出来る。ここで朝を迎えるのは初めてでもないのに、まるで起きている今の方がよほど夢のようだ。
「……御堂さん」
 指先で輪郭をゆっくりと辿りながら、そんな夢見心地で彼の名を呟いた時だった。
「……君はまだそれが直っていないのか」
「!?」
 眠っていたはずの男が、不意に片目を開いたのだ。
「お、起きてたんですか……!?」
「ああ」
 楽しそうに言い放つ彼の声は、どう考えても起き抜けのそれではなかった。一体いつから寝たふりをしていたというのだろう。
 彼という男は時々こうなのだ。
 顔に似合わず、こんな風に子供のようなお遊びに興じたりする。
「……御堂さんの意地悪」
「だからそうじゃないと言っているだろう、なまえ」
 軽く咎めるような調子に、ようやく彼の言わんとするところを理解した。
 要は、自分も彼を下の名で呼べということだ。それは以前からも言われていたのだが、どうしても気恥ずかしさが勝ってしまってなかなか慣れられずにいた。
「た……たか、のり、さん……」
「もう一度」
「孝典、さん」
「もう一度」
「孝典さん」
「……まあ、及第点というところか」
 ご褒美とでも言うように、軽くキスが落とされる。
 及第点以上の評価をもらえるとすれば、それは夜くらいのものだった。感覚の全てが彼に支配されるあの時は、何一つ考える余裕も、恥ずかしさを感じる間も与えてくれないから。
 もしかすると、素面で呼ぶのが恥ずかしいのはそれを思い出すからかもしれない。
「いい加減に慣れて欲しいものだな」
「でも、うっかり人前で言ったりしたら……」
 馬鹿正直に恥ずかしいとは答えられなかったにしろ、言い訳というよりは本心の方に近かった。
 この場合問題になるのは口を滑らせかねない自分のそそっかしさの方ではなくて、もちろん彼との関係を会社の人間に知られてしまうことだ。
「構わない」
「……え、」
「私と君の関係が露わになったところで何の問題がある?」
 はっきりと言い切られる。
 こういう時に、彼にはどうしたって敵わないと思うのだった。
 彼の傍にいる相手が果たして自分でいいのかと、不安になったことは何度もあった。何といっても相手はMGNの誇るエリート部長だ。重役の娘やら方々の社長令嬢やらから見合いの申し入れが絶えないこの男には、自分では不釣り合いなのではないかという思いはずっと引きずっていた。けれどもそんな不安は、怜悧なこの男にはとっくに見抜かれていたのだ。
 だから、こうして傍に置いてくれることが何よりの答えなのだと、今ではそう思っている。
 それに、以前この件で彼と言い合いをしてぐだぐだと食い下がった時には、実力行使とも言わんばかりのひどい目に遭わされたのだ。再びあんなことをされてはたまらない――のはともかくとしても、他でもないこの男が傍にいることを望んでくれるなら、自分はそれを信じるだけだった。
「社員に冷やかされます。特に藤田くん」
「……藤田か……確かにな」
 黙り込むのも少し悔しくて軽口を叩いてみれば、返ってきた言葉に思わず笑いがこぼれた。

「なまえ」
「はい」
「……販売管理課で主任をやっている、仲手川という男を知っているか?」
 身体に腕を回されたかと思えば、彼は唐突にこんなことを言い出した。
 何故いきなりそんな話をと思いながらも、聞き覚えがないというわけではないその人物に関する記憶をなんとか手繰り寄せる。
「ミーティングか何かで顔を合わせたことなら、たぶん」
「……その男が君を大層気に入ったそうだ」
「はあ」
 そんな情報をどこから得たのだろう。しかし、そうそうある姓でもないためか名前こそ記憶に残ってはいたものの、顔はまったく覚えていない。
「……」
 それきり黙った男を見上げれば、どこか憮然とした表情を浮かべていた。
 反応が気に入らなかったのだろうか。そんな顔も思い出せないような相手に気に入られていると聞かされても、そうですか以上の返す言葉など見つけられないのだけれど。
「ええと、物好きな方もいたものですね」
「……それは私に言っているのか?」
「あ、いえ、その……!」
 無難な言葉を探したつもりが、思い切り失言をしてしまったらしい。
 男は盛大に溜め息を吐く。それでも、向けられる瞳は穏やかに緩められた。
「……全く。君がこうだから、私は落ち着いていられないんだ」
 言いながら、男は上半身を起こした。
 バスローブを羽織り、それからベッドを下りる。その振動で上質なスプリングが緩く軋んだ。こちらが何か口を開く前に、少し待っていろと言い残して彼は寝室を出ていってしまった。言葉の真意は分からなかったが、彼は笑っていたから機嫌を損ねたというわけではないと思う。自分もとりあえずと起き上がり、床から拾い上げたネグリジェに身を通した。
 そのままベッドに座って待っていると、男は思ったよりも早く戻ってきた。
 物音らしい物音も聞こえてはこなかったし、彼の見た目に何か変化があったというわけでもないから、何をしに行ったのかは分からない。首が傾ぐ思いではあったが、自分の隣に腰を落ち着けた彼が口を開く気配を感じて、結局尋ねることはせずに彼の言葉を待つことにした。
「なまえ、手を出せ」
「? はい」
 今度は何なのだろう。思いつつも言われるがままに右手を差し向ければ、
「逆だ」
 と軽く叩かれた。
 その手を引っ込めたときも、代わりに左手を差し出したときも、自分は何も考えていなかった。
 右ではいけなかった理由も、本当に何も考えていなかったのだ。
 優しく手を握られたと思った瞬間に、冷たく硬質な感触が指を滑っていくのを感じるまでは。
「……悪くないな」
 彼の手が離れた。
 すぐ耳元で、満足気に呟く声が聞こえる。
 ピンクとホワイトのダイヤに彩られたプラチナの指輪が、薬指の上で光っている。
「み、どう、さん……?」
 自身の指と、彼の顔とを交互に見た。
「安心しろ。すぐにどうこうというつもりはない。君も私も、今は仕事が忙しいからな」
 彼の腕が、腰に回される。
 本当は自分はまだ夢の中にいるのかもしれない。そんな考えが頭を過ぎったのを分かっているかのように、目の前のひとは穏やかに首を振った。
 心臓の辺りが締めつけられたように苦しい。
 けれどもその痛みが。彼の声が、表情が、全てがこれは夢ではないのだと告げてくる。
「……だが、そろそろ君が私のものだと知らしめておく必要があるだろう?」
 もう一方の手にそっと頬を包み込まれてしまえば、込み上げてくるものを抑える術など何も残ってはいなかった。
「なまえ」
 宥めるような声。
「泣くな」
「これを泣くなって言う方が、無理、です……!」
 男の指にしてはひどく繊細なそれが、涙を拭う。
 それでも止め処なく溢れ続ける滴を、今度は舌先が掬った。
 濡れた熱は何もかもを溶かすように熱い。けれども、優しい。与えられる熱に呼応するように、薬指がじんわりと温かくなった気がした。

「……藤田は案外使えるかもしれないぞ。彼が拡声機になってくれれば、君に悪い虫は寄って来なくなるだろう」
「み、御堂さん……!」
「……また"御堂さん"か?」
 油断しきっていた身体は声色の変化を感じ取るその前に、肩を軽く押されただけでベッドへと倒れ込む。
 明るい部屋にはそぐわないほど艶然とした笑みが、視界いっぱいに広がった。
「……その指輪をつけたからには、もう容認することは出来ないな」
 ――お仕置きだ。
 不穏な言葉と共に、再びベッドが揺れる。
 冷たいはずの金属が帯びた熱は冷めるどころか、火傷しそうなほどにその温度を上げていた。