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言葉より雄弁に語るのは

 放課後の教室での攻防戦が始まってから、既に十分が経過していた。
 タイムリミットまでは、もうあと五分しか残されていない。恐らく今日も、また彼の粘り勝ちということになってしまうのだろう。
 ちら、と窓の方に視線をやれば、彼のチームメイト達が帰っていくのが小さく見えた。
 可愛い顔をして要求が厳しいと評判のリコちゃんの下で練習を終えたばかりなのだから、目の前にいる彼だってそれなりに疲れていることだろう。だから、これはわたしの十五分だけの我侭なのだ。
「帰りたかったら、一人で先に帰ってもいいよ?」
 水戸部くんはぶんぶんと首を振った。
 笑顔でこんなことを言うなんて、わたしも大概意地が悪いと思う。彼が帰りたいなんて思っていないことは分かっているし、仮にそう思っていたとしても、この優しいひとにはわたしを置いて一人で帰るなんてことが出来るはずもない。
「じゃあ、やっぱり聞かせてくれなくちゃ」
 それは、と言わんばかりに眉が下がる。
 今日に限らずこのやり取りはもう何度目かも分からないほどだけれど、わたしに諦める気は更々なかった。
「わたしを好きだ、って」
 そう、彼の口からそれを聞くことを。
 はっきり言葉にしてあげれば、水戸部くんがいっそう動揺したのが分かった。
 わたしは単に、彼に好きだと言わせたいだけなのだ。
 本当に、ただそれだけだった。まあ実際のところは純粋な期待が半分と、もう半分のところでは彼の反応を面白がっている部分も無きにしも非ず、という感じではあったけれども。
 彼の部活が終わるのを待つ日は、いつもこうだった。
 誰もいない教室。ちょうど真ん中の列の、一番後ろの机にわたしは座っていて、その真ん前に彼が立っている。
 わたしは机から動かないままで、繰り返す。好きだと言って、と。
「わたしは水戸部くんが大好き」
「っ、」
「だから、水戸部くんにも言って欲しいんだけどな」
 たとえば気持ちを試したいだとか、そんなことを思っているわけでは全くない。だって、彼がわたしをどう思ってくれているかなんて疑いようがないくらい分かっているのだ。
 確かに彼は喋らないけれど、何を考えているのかが読めないなんてことは少しもない。むしろどちらかと言えば、顔に出やすい方に入るんじゃないかと思うくらいだった。笑う時は笑うし、例の伊月くんのお寒いダジャレにはちゃんと青ざめるし、今だって思いっきり照れくさそうにしているし。
 さりげない気遣いが出来て、誰にでも優しい水戸部くんがわたしは本当に好きだった。
 やきもち焼きなわたしはときどき自分にだけ優しくして欲しい、と思ってしまったりもするけれど、そうなったらそれはきっと水戸部くんじゃないんだろう。そんなことをしてもらわなくたって、わたしが彼にとっての特別な位置に立てているという自信はある。いつも向けられる彼の笑顔が、それをちゃんと与えてくれているから。
 だから、今のこの要求はただの欲張りに過ぎないのだけれど。
 それでもやっぱり彼の声が聞きたいから、この先もしばらくは、わたしは駄々をこね続けるつもりなのだった。

『最終下校時刻です。校内に残っている生徒のみなさんは速やかに――』
 毎度お馴染みのBGMが流れ出す。
 放送局員のはきはきとした声が、聞き飽きた定型句と共に時間切れの合図を告げた。
「……ざーんねん」
 思った通り、今日もわたしは負けてしまったみたいだ。
「でも、わたし諦めないから」
 白星いまだ見えず、というところではあるけれど、彼とこうしている時間もわたしにとってはすごく楽しいから、これはこれで別に構わない。
 今は、まだ。
「帰ろっか!」
 すとんと机から下りて、鞄へと手を伸ばす。
 しかし、伸ばしかけたそれは彼の手によって阻まれてしまった。水戸部くんがこんなことをするのは珍しい。
「なあに、言ってくれる気になった?」
 からかうような調子でそう聞いてみれば、ふいと視線を逸らされた。
 照れたような困ったような、こんな表情もわたしの好きなそれの一つだ。でも、そこに何処となく申し訳なさそうな色を感じてしまって、そうしてわたしはほんの少しだけ反省する。困った顔は好きだけれど、本当に困らせたいわけじゃない。
「気にしないでいいよ。わたしが我侭言ってるだけなんだし」
 掴まれている手に、もう片方も添えてみる。
「水戸部くんがわたしと一緒にいてくれるってことが、一番の答えなんだって思ってるから」
 我ながら、相当恥ずかしい台詞。
 でも、彼はそのまま動こうとしなかった。
「……水戸部くん?」
 一瞬、彼が何かを躊躇ったかのように見えた。
 視線がこちらに戻ったと思えば、わたしの手を掴んでいるのとは逆の手が顔に向かってゆっくりと伸びてくる。指先が耳の上から髪の間に差し入れられて、顔にかかっていたその一房を耳にかけた。
 どくん、と自分の心臓が大きく鳴ったのが分かる。
 ……これは、まさか。
 期待半分でも待つこと数カ月、とうとう念願が叶う時がやってきたのかもしれない。
 髪を除けた手が肩に添えられる。一歩、二歩と距離が詰まる。彼が身を屈めた。
 どんな小さな声も聞き逃すまいと、全ての意識を聴覚に集中させるように、わたしは目を閉じた。
 きっとそのまま、いつまでだって待てた。
 けれども、誰もいない教室を包み込む静けさが破れることはなかった。
 言葉は、降りてこなかった。
 その代わりに、ひとひらの熱が頬へと優しく落とされたのだった。
 何が起こったのかを理解した途端に、穏やかなはずの温度はわたしの中で急激に膨れ上がる。瞬く間に火傷しそうなまでに熱量を上げたそれは、今度は逆輸入さながら彼にも伝染したらしい。繋がっていた手はいつの前にかどちらからともなく放してしまっていたようで、顔を上げた彼の目を見る間もなく、身体を引かれたわたしは視界を奪われてしまった。
 やがて、ぽんぽんと頭を撫でられる。恐らく照れ隠しのつもりなんだろう。でも、ぎこちなさすぎるその動きでは、気恥ずかしさを隠すことはあまり出来ていないような気もする。
「……反則でしょ、こんなの……」
 いつも試合でスタメンを張っている、スポーツマンのくせに。
「……しかも自分でやっといて照れるとか」
 ぴた、と動きが止まった。
 きっと彼は真っ赤な顔をして、責めるような目をわたしに向けていることだろう。
「今度からは、こうしてくれるのを待つことにしようかな」
「……!」
 明らかに動揺したのが伝わってきて、少し面白かった。
 ――ああする方が、好きだと言うよりもよっぽど恥ずかしいと思うのに。
 でも、彼なりに応えようとしてくれたことが、わたしには本当に嬉しかった。だからって、やっぱり言葉にしてもらうのを諦めるつもりもないのだけれども。
「……でも、いつかは聞かせてね?」
 心なしか、彼が頷いてくれたような気がした。