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うつつぬかし

 しんとした真夜中の静けさを、梟の声が時折かすかに揺らしている。
 開かれた雪見障子の向こう、硝子越しに見える中庭の池には大きな月が浮かんでいた。
 水面に落ちてなお煌々と存在を主張するその黄金色は、彼の瞳の色とどこか似ている――そんな気がしてゆらゆらと浮かぶ光につい見入っていると、薄ぼんやりとした思考をかき消すように伸びてきた手がなまえの視線を顔ごと引き戻した。
「よそ見してたら駄目だよ」
 得意気な顔でそう言う割に、意識を奪い返した男の不躾な手は有無を言わせぬ強引さだった。
 考えていたのはあなたのことなのに、だなんて、そんなことは絶対に言ってやらないけれど。

 ――こんな時間にごめんね。でも、どうしても君に会いたくなって。
 明日は朝から遠征に出てもらうから、と早めに休むよう男に言い渡したのは自分の方だったのに、名残惜しい思いを引きずっていたのを見抜かれていたのかもしれない。
 そんななまえを気遣って、さも自身が我侭を言い出したかのような体で夜半に部屋を訪ねて来てくれた彼のそういうところには本当に敵わないと思う。その上、駄目押しのように「君のことを考えてたら、我慢できなくなっちゃったんだ」などと告げてくるものだから、なまえは早々に白旗を上げるしかなかった。そうして誘われるままに、胡坐を組んだ膝の上に向かい合うような形で座らされ、逞しい左腕を腰に回され、今では右手に頬さえ捕まって。
 逸らすことを禁じられた視線は、切れ長の隻眼に容易く絡め取られる。
 琥珀を融かした蜜色の瞳に吸い込まれるような心地がして、なまえは改めて燭台切光忠という男に魅せられていることを自覚した。
「ねえ、主」
 今はそこから一番遠い場所にいるはずなのに、燭台切は殊更になまえを“主”と呼んだ。
 単に面白がっているだけなのだと分かってはいても、この状況とはあまりに似つかわしくない呼称になまえはつい眉を顰めてしまう。
 確かになまえは、何振りもの刀を束ねて戦う主たる存在だ。
 歴史を守るために、刀の付喪神である彼らの力を借りる。なまえとしてはそういう気持ちでいるけれども、内心はどうあれ己の意思で彼らを使役していることに変わりはなかった。自らの都合で呼び出しては、人は彼らを戦いの地へと送り出す。現にそれを嘆く者もいる。もちろん意に沿わないことを強いるつもりなんて自分には毛頭ありはしないが、その気になれば彼らの身はなまえの一存でどうとでもなるのだ。人のかたちを取り上げて道具としての生に戻すことだって、彼らの本体である刀そのものを溶かしてしまうことだってできる。いかな付喪神であろうと、彼らが人に使われる者である以上、そこには覆し難い主従の関係があった。
「どうしたんだい?」
「……別に、どうもしてない」
 それでも、彼とこうしている時だけは主でいたくない。
 主でいたくない、それだけで終わらないのだから、自分はきっとどこかおかしいのかもしれない。
 目の前の男と対等な恋人でありたいと願うのなら分かる。けれど、自分が望んでいるのはそうではないから。
「どうもしてない、って顔じゃあないよね」
 燭台切は愉しそうに目を細める。
 次の言葉を紡ごうとする唇が、そこだけ時間の流れが変わったようにゆっくりと動いて見えた。
「なまえちゃん」
 ――ああ、この、声が。
 名を呼ばれただけで、全身が面白いように打ち震えた。心臓をやわやわと手掴みにされているかのような感覚に、命を握られているのは一体どちらの方なのか分からなくなる。
 息もできなくなりそうな被支配感に身体中を包まれて、背中がぞくぞくした。それこそがなまえの求めていたものだった。主であるはずの自分は、あろうことかこの男に支配されることをどうしようもなく望んでいた。
「……意地悪してごめんね。僕のかわいいなまえちゃん」
 所有を口にされて、尚更身体が疼く。
 他の誰かが吐こうものなら笑ってしまうであろう歯の浮くような台詞も、彼にかかれば人を蕩かすだけの魔法の言葉だった。
 頬を捉えていた右手が、焦らすように肌を撫でる。唇の上を滑る親指が、甘い痺れを連れてくる。
 恐ろしいくらいに整った顔がゆっくりと近付いてくるとき、なまえはいつも最後まで目を開けていられないのだ。

 あつい。
 触れた瞬間から意識を侵食する熱。唇の表面を舌で撫でられ、形を確かめるように何度も食まれ、身体の芯を震わせる感覚に男の首へ縋りつく。
 合わせ目を割って突き入れられた柔らかく湿った熱のかたまりに、絡み付かれ、吸い上げられ、余すところなく舐り尽くされて、全身から力がすっかり抜け切ってしまう。呼吸の合間に漏れる、男の鼻にかかった声は鼓膜さえ融かして、今や感覚器官の全てがたったひとつの存在で埋め尽くされていた。
 そうして、どちらのものとも知れない唾液が口の端からこぼれ落ちる頃になってようやく、なまえに再び呼吸の自由が与えられた。
 体重の全てを男に預けて、その首元に顔を埋める。身体はぐったりと弛緩しきって、息も絶え絶えといった状況のこちらに対し、相手はまだまだ余裕を残しているらしい。しばらくはなまえの呼吸を整えるようにぽんぽんと背を撫でてくれていたが、それが少しだけ落ち着いてくると、燭台切はその機を見計らったかのようになまえの耳元へ唇を寄せたのだった。
「……そろそろ君が欲しいんだけど、駄目かな?」
 この期に及んで白々しくも問うてくるのは、偏に答えを言わせたいからに違いない。
 吐息交じりに落とされた低音は、ひときわ甘さを孕む。
「……だめって言ったら、どうするの」
「素直じゃない君も好きだよ」
「……光忠のばか」
 抱えきれない熱をため息とともに吐き出しても、視覚から、聴覚から、触れている箇所の全てからそれは止め処なく流し込まれる。
 腰を支える大きな手は、促すように衣の裾をまさぐり始めていた。早く早く、この手に融かされてしまいたい。そんな本能の声が聴こえたような気がした。
「……いいよ、あげる。でもその代わり――」
 なまえは顔を上げた。
 渇望に憑かれた視線が絡み合う。男の左目に燈る剥き出しの情欲が、惜しげもなくこの身に注がれている。
 供されたい。それ以外にはもう、何も考えられなかった。
「頭のてっぺんから足の先まで、全部光忠だけのものにして」
 ――お望みのままに。
 一瞬の瞠目の後、男は満足気にそう囁いて、なまえの首筋に歯を立てた。