Aa ↔ Aa
ルリハコベ
その青みがかった黒い髪は、宵闇のように深く澄んで、少し色素が薄めの肌によく映えていて、すっと通った鼻筋も、形のいい唇も、右目を隠している眼帯でさえも、まるで全てがそうあることを予定されていたかのように、わたしの目の前に現れたその姿はあまりにも完璧、だった。
すらりとした長い脚で刀掛の向こう側に立つ、今しがた人のかたちを得たばかりの人ならざる存在を、膝を折ったまま見上げる。
閉ざされた左瞼がゆっくりと開かれて、その奥にある蜜色の光が閃いたとき。わたしは、呼吸を忘れた。
「――初めまして。僕は、燭台切光忠」
静まり返った部屋の空気を揺らす低音。
穏やかな言葉の使い方をする一方で、強い矜恃を感じさせるその声に、知らず背が震える。
こんなに鮮烈な出会いをわたしは知らない。
勝手に頭の中に流れ込んでくる、桜が花開くいつもの映像でさえも一瞬でどこか彼方に押しやられて、まるで感覚のすべてを埋め尽くされてしまったみたいだった。
「青銅の燭台だって切れるんだよ。……うーん、やっぱり格好つかないな」
きっと彼もまた、数々の名将の手を渡ってきた刀のひとつなんだろう。
それがこうして人の身で現れて人の言葉を操り、時を遡って自ら戦うというのだから、刀剣男士というのは本当に奇跡みたいな存在だと改めて思う。
「僕を喚んだのは、君だね?」
言いながら、彼はその長身をすっと屈めて膝をつき、視線の高さをわたしのそれにぴったりと合わせた。琥珀の隻眼に真正面から見据えられて、瞬きさえもできなくなりそうになる。
喚んだ、と彼は言ったけれど、実際にはわたしは力を貸してくださいとお願いしたのに過ぎないし、応えてくれたのは彼の方なのだ。
それでも彼は返事を待っているようだった。促すように小首を傾げる仕草がなんだか妙に蠱惑的で、思わず生唾を飲み込んでしまう。
――しょくだいきり、みつただ。
これから共に戦ってくれる、新たな一振り。
人の身体を得た彼は、この世界で何を思うんだろう。何を好んで、何を厭うんだろう。そしてわたしは、もうそこから目を離すこともできなくなってしまったのだ。根拠なんて何ひとつないけれど、それは確信めいた予感だった。
やっとのことで、わたしは一度頷いた。
彼は、やわらかく目を細めた。
「よろしく、主」
――その表情も、優しい声音も、きっと一生忘れたりなんてできない。
「……おやおや。まるで人生の一大事、って顔じゃないか」
あの衝撃的な出会いから、きっとまだ一時間も経ってはいない。
放心しきったままの有り様を見かねたらしい近侍に背を叩かれて我に返ったわたしは、ようやくそれなりの自己紹介と、新入りの彼に対する一通りの現況説明を終わらせたのだった。
そうして、本丸の案内を買って出てくれた近侍に彼を任せて一人執務室に引っ込んで、仕事をするでもなく文机に肘をつき、冷めやらない熱を持て余しながら過ごすこと暫し。
「でも、君のそれって要するに、ただの一目惚れだよねぇ」
お役目を終えて戻ってきた、頼りになるけれど一癖も二癖もある近侍の大脇差は、未だ夢心地を引きずるわたしを切れ味抜群に一刀両断してくれた。
「ばっさり青江……」
「誰だいそれは」
入口の襖を閉めると、ばっさり、もといにっかり青江は押し入れから引っ張り出した座布団をわたしの傍らに並べた。ついでに小棚を開けて、こっそり隠しておいたはずの饅頭まで勝手知ったるといった風で持ち出している。さすがの偵察力の成せる業なのか、それとも彼がわたしの元に来てくれた最古参のうちの一振りだからなのか、どちらにしてもこの部屋の――というよりわたしの秘密は、彼には大概お見通しなのだった。
「この屋敷の中は、だいたい案内してきたよ。それと、昔馴染みの子がいるみたいだから、少し話してくるってさ」
「ありがとう、ご苦労さま」
机から向き直ると、どういたしまして、とわたしの前にも饅頭がひとつ差し出される。
ばっさり青江に煩悩まで断ち切られたわけではないにしろ、熱に浮かされていた頭も大分落ち着いてきたみたいだ。一緒になって包装のビニールを剥き、中身を口に押し込みながら考える。旧知の仲、といったら誰だろう。
伊達政宗公が使ってた刀なんだ、と、燭台切さん本人はそう言っていた。持ち主を同じくする刀なら、大倶利伽羅さんだろうか。そういえば、彼の口から「光忠」という名前を聞いたことがあった。そして確か鶴丸さんも、伊達の家にいたことがあったんだったっけ。
人当たりのいい燭台切さんは誰とでも仲良くやってくれそうだし、他の男士たちとの関係に困るようなことはなさそうだけれど、知り合いがいるのならなおさら安心だ。もしかすると、むしろ燭台切さんの方が大倶利伽羅さんの世話を焼いてくれたりするのかもしれないけれど。
「……それにしても、君も乙女だったのかぁ」
変な意味じゃないよ? と付け足された言葉は聞かなかったことにしておく。
青江に言わせればただの一目惚れかもしれない、それでもわたしにしてみれば、控え目に言ったって「ものすごく強烈な一目惚れ」くらいの違いはあるのだ。人生の一大事に数えたって、決して大袈裟なんかじゃない。だってあんなの本当に初めてだったんだから。
「まあ、君の気持ちも分からなくはないよ。彼、綺麗な顔してるし、体つきも立派だし……男の僕から見ても、色気を感じちゃうもんなあ」
その意見自体には概ね同意するけれど、内容以上に危なく聞こえてしまうのはもうある意味才能なんだと思う。
それからたっぷりと間を取って、彼は己が名のごとくにっかりと笑みを作った。
「これから楽しみだねぇ」
「でも別に何がどうなるってわけでもないし……」
反射のように口から出たそれは、青江にというよりも自分に対しての言い訳のような気がした。
何がどうなるわけでもない。それは本当にそうだけれど、こんなことを口走ってしまうのは、何かがどうにかなってほしい、と既に心のどこかで思ってしまっているからなんだろうか。もちろん、仲良く出来たらすごくうれしい。だけど今はまだ、出会ったばかりの彼のことをもっと知りたい、と思うだけで。確かにそれは今までとは違った種類の、たとえばときめきだとかそういう名前が付いてしまうような、そんな気持ちなのかもしれないけれど。
「……それより、遠征組が帰ってきたら歓迎会だからね! お酒の買い出しだとか、後で手伝ってもらうんだから」
気付けば向けられる笑みがにっかりからニヤニヤになっていて、わたしは無理やり話を逸らした。
歓迎会とはいっても、いつもより少しだけ豪勢な食事と少しだけ高級なお酒を用意して、後はみんなに集まって騒いでもらう、というくらいのものだ。それでも何だかんだで宴会を好む男士は多いし、お互いに親睦を深めてもらおうということで、新たな仲間を迎えた時には恒例の行事になっていた。
燭台切さんがどれだけいける口なのかは分からないけれど、そうでなくてもこの本丸は複数の酒豪を抱えている。万が一にも宴の途中で兵糧が尽きようものなら、非難轟々間違いなしだ。
小腹も満たされたことだし、まずはストックの確認から。気合を入れて腰を上げようとしたわたしだったけれど、制するように差し出された片手にそれは阻まれてしまった。
「青江?」
「お客さんだよ、主」
わたしに代わって立ち上がった近侍は、部屋の入口に足を向け、襖の引手へと指をかける。
別に外から声が掛かってからでいいのに、珍しくせっかちだなあ。なんて呑気なことを考えていたわたしは、襖が開け放たれた瞬間に、大焦りで居住まいを正すことになる。
「……失礼。取り込み中だったかな?」
そこにいたのが誰だったのか、青江は初めから分かっていたに違いない。
だったら少しくらい、わたしに心の準備をするための猶予をくれたってよかったんじゃないだろうか。それとも、分かっていたからこそ敢えてそうしなかったのか。どちらにしても、恨み言を言うにはもう遅かった。
「いいや。ちょうど今終わったところさ、燭台切くん」
青江はそう言うと、わたしの方を振り向いて悪戯っぽく口角を上げた。彼とは長い付き合いだ。だから、その含みのある笑みの向こうでよからぬ何かを企んでいることくらい、手に取るように分かる。
「お酒の在庫は確認しておいてあげるよ。……それじゃあ、邪魔者は退散するから、後は二人でごゆっくりどうぞ」
「ちょっと青江……!」
予想通り、ものすごく余計なことを言い残して去っていく後ろ姿に頭を抱えたくなった。
誤解されたらどうしてくれるんだろう。この場合誤解には当たらないような気がしないでもないけれど、でもそこが問題なわけじゃなくて。ああいう調子がにっかり青江という刀の常だとはいえ、燭台切さんはまだ彼の日頃の言動を知らないのだ。みんなと同じように受け流してくれるとも限らないし、もしかすると変な風にとられてしまうかもしれない。早々に気まずくなるような事態だけは避けたいところなのに。
「やっぱり出直そうか?」
「あっ、いいの、大丈夫だから! とりあえず入って、座って?」
「……それじゃあ、お言葉に甘えて」
消えた背中をいつまでも恨みがましく睨んでいる場合じゃなかった。いきなり気を遣わせてしまうという体たらくに情けなくなりつつ、わたしは彼を室内へと招き入れる。襖が閉められた後になって、今度は正真正銘の二人きりだということに思い至ったけれども今更どうしようもない。
無駄のない動きで、燭台切さんは空席になった座布団へ腰を下ろした。身体の大きさが違うせいか、なんだか青江が座っていた時より距離に余裕がないような気もする。それもやっぱり今更どうしようもない。そうだ、こういう時こそ御神刀を見習って、平常心、平常心、だ。
「……ええと、とりあえず一通りは回ってもらったんだよね。どう……かな? うちはそんなに規模の大きいところじゃないけど……馴染めそう?」
まずは世間話のつもりが、よく考えてみると返答如何ではこの本丸の運営を見直さざるを得ないようなことを聞いてしまったかもしれない。が、冷や汗が出たのも一瞬で、ああ、と頷く声のおかげで幸いそれは杞憂に終わった。
「いい所だよね、ここ。きっと上手くやっていけると思うよ」
「よかった……」
たとえお世辞が含まれていたとしても、いい所だ、と言ってもらえたことは素直に喜んだっていいはずだ。
そして、それが最初の印象だけじゃなく、ここで過ごす日々の中で本当にそう感じてもらえるように。その思いをいつまでも持ち続けてもらえるように、わたしも頑張らなければ。
「……あ、そういえば、何か用事があったんじゃない?」
尋ねると、燭台切さんは首を横に振った。
「大したことじゃないんだ。ただ、少し君と話がしたくて」
さっきは随分緊張してたみたいだからね。
そう続けられて、うっ、と言葉に詰まる。確かにあれだけ挙動不審ぶりを晒していたんだから、そう言われてしまうのも当然と言えばそうなんだろうけど。
「あの時はその、ちょっとびっくりしちゃって……」
「今もそう、かな?」
やっぱりそれも看破されていた。しかも、ばれたという心の声まで思いっきり顔に出てしまった自覚がある。今度は声を出して笑われてしまった。
「気にしなくていいよ。そのうち慣れてくれれば、さ」
落ち着かせるようにそう言ってくれる彼は優しい。けれど、これではなんだか立場が逆転してしまっている。
別に主の威厳だとかそういうのはどうでもいい。そんなのわたしは初めから持ち合わせていないし、偉ぶることに興味なんてこれっぽっちもない。ただ、本来はわたしの方が、初めて人の身を得た彼が不安にならないような態度で迎えてあげなければいけなかったんじゃないだろうか。一目惚れして緊張しまくっていたのはその通りだし、挽回するにはもう手遅れかもしれない。それでも、歴史の偉人たちとはどうやったって比べようもないただの小娘でも、彼の――燭台切光忠という刀の今代の主になったのは、他の誰でもないわたし、なんだから。
「……あのね、わたし、こんなんだし、頼りにならないかもしれないけど。ここに来てくれたみんなには、毎日を楽しく過ごしてほしいって思ってる。だから、困ったことがあったら……ううん、困ってなくても、何かあったら言ってほしいの」
人の器には慣れない。最初はみんな口を揃えてそう言うし、動けば疲れが溜まったり、怪我をすれば痛みを感じたりする生身の体は、そういう一面を見れば確かに不便なものなんだろう。
だけど、それだけじゃないことを知ってもらいたい。美味しいものを食べたり、季節を肌で感じたり、他愛もないことで仲間と笑い合ったり。戦いだけじゃない、この体がなければきっと出来ないことを、ひとつでも多く楽しんでもらいたい――そんな思いを、目の前の彼に伝える。それは、ここに来てくれた全ての刀剣男士に対するわたしの願いでもあったから。
「ありがとう、主。そうさせてもらうよ」
そして叶うことなら、彼のそういう姿をずっと近くで見ていられたら。
微笑んでくれた燭台切さんに、わたしはそんなことを思ってしまうのだった。
「……でも、まずはやっぱり戦に出してもらいたいかな。早くみんなに追いつきたいし、せっかくここに来たからには格好良く活躍したいんだ」
もちろん、彼らの本分がそれだということは大前提として分かっている。
送り出すことしかできない身としては、不安やもどかしさを感じることも多々あるけれど、戦いに意欲的でいてくれること自体はありがたいのだ。
「経験はまだまだだけど、これでも実戦向きだからね。自信はあるよ」
私情を全部抜きにしても、太刀である彼は部隊の中心的な存在になってくれるはずだ。お願いされるまでもなく、すぐに第一線で活躍してもらうことになるだろう。
「うん、正直、すごく頼りにしてるから」
「本当かい? それは嬉しいな」
新戦力を心強く思いながら、わたしはさっきよりもいくらか緊張が抜けていることに気が付いた。彼との会話にもやっとで少し慣れてきたような気がするし、この調子なら彼の言う「そのうち」が来る日もそんなに遠くはないのかもしれない、なんて。
……なんて、甘かった。
「――じゃあ、期待に応えないとね」
言葉どおり自信たっぷりに落とされた低い声のせいで、それは呆気なく振り出しに戻ってしまったんだから。