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なまくら くらくら
己の何百年も後の時代に生まれた、戦も知らなかったその娘は、それでもこの身を捧ぐべき主君としての資質に欠けるところはなかった。
かの独眼竜にも比肩するほどの女傑、というのとは種類が違う。けれども、小さな背をいつでもぴんと伸ばして歩く彼女は心根の真っ直ぐな努力家だった。戦事についてはまだまだ発展途上だが、無知を謙虚に受け止め、時間を見つけては兵法書を紐解いているのを知っている。何より彼女は、刀剣たちを大切に大切に慈しむひとだった。
持ち主が誰であろうと役割を果たさねばならないのが道具だが、刀である燭台切光忠の主として彼女は十二分であると言ってよかったし、彼女から与えられた、自らの意思で好きなように動く身体は不便よりも感動の方がずっと大きかった。誰に振るわれるでもなく、他でもない己の手で立ち塞がる敵を斬り伏せられるのはいい。おまけに今では料理という新たな愉しみまで見出している。
彼女の一振りとしてのこの不思議な生に、燭台切光忠は確かに満たされていた。
満たされていた、はずだった。
街の雑踏の中でも、その背を見紛うことなど絶対にあり得ない。
後ろ姿だけを見れば、人の子はどれも似たり寄ったりだ。それを外見に頼らず見分けられるのは、己を顕現させた審神者に特有の“気”を感じ取るからに他ならないのだが、燭台切はそこにそれ以上の意味付けをしたいと願ってしまう。人間のように。
「主!」
早足でさっさと距離を詰めてしまい、華奢な肩を軽く叩いた。なまえは驚いたようにこちらを振り向いて、しかし燭台切の姿を認めるや表情を綻ばせる。……ああ、こういうの、悪くないな。その微笑に深い意味などないことは百も承知で、単に声を掛けてきたのが見知った相手だったというだけの、どちらかと言えば安堵に近いようなものでしかないのだろう。そうと分かっていながらも、まるで会えて嬉しいとでも言われているかのような都合の良い錯覚を、燭台切はそのままにしておいた。
「偶然ね。あなたも買い物?」
「いいや。どこかの誰かさんが、お供も付けずに街へ出て行ったらしい、って聞いたものでね」
冗談めかして言えば、なまえは悪戯を咎められた子供のように眉を下げる。
「……だって、個人的な用だったんだもの。どうせすぐに終わるし、気にしなくてよかったのに……」
「それでも、一人で出掛けるのは良くないよ。いくら政府の管理下にある場所だからって、絶対に何も起こらない、なんて言えないんだからさ」
「ちょっと過保護すぎない? ……でも、気遣いは嬉しいわ、ありがとう」
純粋に心配されたと思っているのだろう、やはりどこか決まりが悪そうに謝辞を述べるなまえには燭台切の胸中を知る由もなかった。
身を案じる気持ちは、決して嘘ではないけれど。
何かが起こる可能性を考えたというよりは、ただ彼女と二人きりになれる機会を逃したくなかっただけだった。
個人的な用、というくらいだから、買い物を見られたくなかったのかもしれない。食材や日用品の買い出しには、荷物持ちが必要でなくとも大抵誰かを伴うなまえだから、おそらくはそうなのだろう。同行を断られるより先に店の外で待っていることを告げると、「相変わらず気が利くのね。ほんっと、よく出来た男なんだから」とご機嫌な調子で燭台切の背を叩き、なまえは店の中へと消えていった。
出入りの激しい入口付近でこのまま突っ立っているわけにもいかない。往来を避けて道を横切り、なまえが入っていった店の斜向かいに当たる建物の壁に背を預けて、燭台切は小さく息をついた。
――まるで鈍らになったみたいだ。
もちろんこれは言葉の綾に過ぎないし、刀として使い物にならなくなったらお終いだ。それは己の折れる時でしかない。
一人でも多くの敵を討ち果たし、最期は戦の場で散るというのが刀の正しい在り方だと燭台切は考える。ただ、なまえはその結末を絶対に許しはしないだろうから、当面は武勲を立てるということに尽きるのだろう。けれどそれだけならば、きっとなまえが主でなくても遂げられたはずなのだ。戦場を与えてくれれば十分。刀を正しく使ってくれる主であれば、それで良し。だから、なまえ自身への執着は、刀の本懐とは全く別のところにある。
その正体が、偏に男として彼女に抱く恋慕であり、そこに情欲すら潜んでいることに気付くまでに、そう時間はかからなかった。
物と持ち主という関係から、ある程度の好感は当然に生ずる。頑張り屋さんだね、と褒めてやりたくなるようななまえの人柄を好ましく思う気持ちもあった。だが、それが一体何の説明になろうか。喜怒哀楽を偽りなくまっさらに映した表情のどれ一つとして見逃したくない、網膜よりもっともっと奥の部分に焼き付けたいと、隻眼はいつだって彼女を追った。しょくだいきり、とお世辞にも格好がいいとは言えない己の名を彼女の唇が紡ぐ度に、どうしようもなく心が震えた。甘やかな音を生み出すそこに触れられたなら、いかなる心地がするものか。この腕の中に彼女を閉じ込めて、二人きりの世界でそれを確かめてみたい――。そんな生々しい欲求を、燭台切は厭うことなく自然と受け容れた。恋とは斯様なものなのだと。
受け容れ難いものは、また別にあった。燭台切はなまえにとって初めの一振りでもなければ、二振目でも三振目でもない。己が顕現されたときには既に、この本丸は小規模とはいえそれなりの所帯を形作っていたし、少なくとも十を超える刀剣がなまえの元に集っていたように記憶している。自分が何番目かだなんて別段気にもしなければ、そうする理由も当時の燭台切にはなかった。けれども今は違う。来てくれてありがとう、と目を輝かせて燭台切の手を取った彼女は、初めて邂逅した刀にどんな表情を見せたのだろう。その幸運な刀は、なまえの心の内にどれほどの情感を呼び起こしたことだろう。
途端に燭台切は、墨をひっくり返したようなどす黒い濁流に己の矜持を浸食される艱難に苛まれた。人の身体で送る生活に苦も無く順応し、これまで何事もそつなくこなしてきた燭台切にとって、それは初めての御しがたく厄介な代物だった。猛烈な嫉妬。如何なる時も格好良く在らん、そんな己の美学を真っ向から否定するような感情と戦って抗って、結局は自らの内にそれを認めざるを得なかった。それほどまでに燭台切は彼女を欲していたのだった。
誰に譲ってなるものか。後れを取っているのなら、取り返すまで。己が悲願の成就と嫉妬心の克服は、同じゴールにあった。役に立ちたいだとか尽くしたいだとかの純粋な忠心はもちろん失ってなどいないが、それは刀の領分に委ねる。この戦いは、ただの男としての燭台切光忠の戦いだった。
幸いと呼ぶべきかどうかはさておき、燭台切にとって、なまえの歓心を得ること自体はさほど困難ではなかったように思う。というのも、強烈な自我と個性とを持ち合わせた刀剣たちが揃い踏みといった中にあって、温厚・柔軟・器用と三拍子揃ってなまえにそう言わしめた己は余程扱い易かったであろうことが窺えた。無茶を言わない、問題を起こさないというだけで有難がられるのもどうかとは思うが、しばしば些細なことでどうしてこうもと言った具合に仲を拗らせる、一筋縄ではいかない彼らの間をうまく取りなしたことで涙を流さんばかりに感謝されたのは一度や二度の話ではない。そうして勝ち得た、スキンシップ付きの「よく出来た男」の称号。
あの気安さは、彼女が注いでくれる信そのものだ。初めの一振りに対するそれともきっと遜色ないほどの。
ここへ来て燭台切は攻めあぐねていた。これまで築き上げてきた信頼の砦は、いかにせば幸せな夢の城へと姿を変えてくれるのか。言葉ひとつ、手のひらひとつ、違えば砂上の楼閣と消えるは一瞬。積み重ねられたその一片をも傷つけることなく損なうことなく、もっとずっと奥にある繊細な扉をひらけなければこの渇求は永遠に癒えない。そうして再び思うのだ。鈍らになったみたいだ、と。
「お待たせ!」
明朗な声が、袋小路の思考から燭台切を引き戻す。
姿が見えたらすぐに迎えに行くつもりでいたはずだったのに、いったいどれくらいの間を店の入口から目を離さずにいられたのかすら最早定かではない。
知らず組んでいた腕をほどいて、燭台切はなまえの片手に提げられた布の鞄へ手を伸ばした。きっちりと口を閉じられた外側からは中身を窺いようもないので、不興を買うこともないだろう。
「平気よ、重くないもの」
「女の子に荷物を持たせるなんて格好悪いことはできないよ。用事はもう終わったのかい?」
こういうところで譲る気がないのを主はよく分かってくれている。全くもう、とそれでも小さく笑いながら、秘密の戦利品は燭台切の手に預けられた。
「おかげさまでね。……ねえ、わざわざ付き合ってくれたんだし、お茶でもご馳走しようかなと思ったんだけど、あなた今週は厨番よね。もうすぐ支度の時間だから……お礼は今度にさせてくれる?」
「気にしないで、って言いたいところだけど、君とのティータイムなら乗らない手はないな。期待しておくよ」
またそんなことばっかり言って。取り合ってもくれず歩き出した彼女は変わらずご機嫌の様子だった。軽口ならいくらでも言えるし、こういう応酬は嫌いではない。その裏側に、気取られてはいけない執着と独占欲をひた隠しにしながら、それすら余さず明け渡してしまいたい相反する情動を抱えながら、歩幅を合わせて辿る帰路。穏やかで危うげな、二人きりの時間。
そんなところへ、真横から突き刺さり始めたのは珍しくも無遠慮な視線だった。視界の閉ざされた右側から否応なしに感じ取れる、しげしげと、値踏みでもするかのような。
「……僕の顔に何かついてる?」
たまらず彼女を向いて尋ねれば、一瞬のきょとんとした表情。それからなまえは緩く首を振った。
「違うの、ごめんなさい。どうしてそんなに男前なのかしらと思って、ついね」
「な――」
戦場ならばこんな不覚はあり得ない、受け身を取る間もなく正面から打ち込まれた不意の一撃。
それがただの戯れでしかなかったならば、あるいは調子を合わせて流すこともできたのかもしれない。けれどもなまえの言葉は偽らざる気持ちを映して、彼女の刀を誇らしげに称えるのだ。
「さっきだって、びっくりしちゃった。ものすごい美青年が立ってると思ったら、燭台切だったんだもの」
「……ははは、大げさだなあ」
「本当なんだってば。おまけに強いし頭も良いし、あなたってほんと、非の打ちどころがないっていうか……」
「そんなに褒めたって、何も出てこないからね」
浴びせかけられるひたすら純粋な賛辞の中に、燭台切は己の望むものを未だ見つけられない。
元が何であれ、刀剣男士が人間の男と同じ欲求を持ち合わせた存在であることをなまえはきちんと認識している。だから本丸という共同生活の中でも恥じらいは捨てないし、不用意に隙を見せたりもしない。けれど、それは単なる異性に対しての礼儀であり、至極常識的な振る舞いに過ぎないのであって、まさか自分が彼らの色恋の対象になるなどとは考えてもいないのだ。何故か、答えは明白で、なまえ自身にとっても刀剣男士はそういう存在ではないからだ。
示し方こそ各々に合わせてはいるが、誰にも注がれる底深い愛情。その本質は人間でいうところの家族愛が最も近い。
それはある意味で、物に対する正しい在り方とも言える。いくら物を大切に慈しもうとも、人は物に恋慕などはしない。だが、今の燭台切は人の器にいる。人の器で人のように生きる。人ではないというだけだ。まさにそれこそが彼女との途方もない隔たりで、彼女が手放しで己を称える理由そのものなのだとしても。
「他の本丸にも燭台切光忠はいるけど、身内の欲目ってやつなのかしら。どう見てもやっぱり、わたしの燭台切が一番かっこいいのよね」
――わたしの燭台切。
耳を浸す甘露の響きは、魂の外側を優しく愛撫するだけでもっと奥にある一番疼くところを掴んではくれない。
他意がないことくらい分かりすぎるほどに分かっていた。なまえの喚ぶ声を聴いたこの世にただ一振りの燭台切光忠と、有象無象の審神者に従う同じ名の刀、それを区別するためだけの言葉だ。
でも、ねえ、君は馬鹿だよ。君を自分だけのものにしたくて仕方のない男に、そんなことを言ってしまうんだ。
「……だったら、僕を君の男にしてみない?」
いったい、馬鹿はどちらか。そう嗤いたくなるほどに呆気なく“なまえの燭台切”はその背を押された。
いつの間にか街区を抜けて、辺りにはもう人気もない。止まったふたつの足音、ざわざわと空気を揺すぶる風。両の瞳をいっぱいに開かせて、なまえの唇からこぼれ落ちるのは意味を成さない音ばかりだ。乱している――彼女の思考を。戦にも似た高揚を燭台切は覚えていた。秘めた刃は、最早抜かれてしまったのだ。
「そんな風に言ってくれるくらいだ、君は僕を買ってくれてるんだろう? それならどうかな、隣に置く相手に選んでみても。自分で言うのもなんだけど、僕、そういうのも上手くやれると思うんだ」
言葉は流れるように口を衝いて出る。対する彼女の、面白いほどの動揺。待ってよ、どうしちゃったの、わたしそんな。見る見る朱に染まっていく無防備な頬が、弥が上にも燭台切に火をつけていた。肩が触れるほど近付くことを許されてなお、ひたすらに正しく主であったはずのなまえが今、初めて己の前に女の顔を晒している。喜悦に沸き立った赤い奔流が、血管を震わせながら燭台切の全身を駆け巡った。
「実は、ちょっと憧れてたんだよね。おめかししてデートしてみたり、お揃いの指輪を付けてみたりとか、楽しそうだなってさ」
内実余裕などない。だが、斬るか斬られるかの瀬戸際、だからこそこの刃は冴える。彼女の大絶賛する“一番かっこいい燭台切光忠”は、もう微塵も崩してはならない。それがこの戦いに勝つための唯一の手立てだ。
今この胸の内を全て明かせば、負ける。好きだと縋れば、愛してくれと懇願すれば、なまえは主に戻ってしまう。だから今は、どこまでも如才なくスマートに。煮えたぎる激情を、決して気取られることなく。
「ねえ、だって、それってつまりその、こ、恋人になる、ってこと……で、しょ……?」
やっとで彼女が絞り出した言葉はこの意を違わず汲んでいる。
これまで一度として考えることのなかったであろう刀剣男士との関係を、なまえは確かに想像したのだ。そこに燭台切を乗せて。
「まあ、そういうことになるけど、もっと気軽に考えてくれていいよ。僕としては、今みたいに二人で出掛けたりできればそれでいいんだ」
当面はね、とは言わずに。
畑の蕃茄さながらに真っ赤に熟した頬へ燭台切は手を伸ばした。手套越しにも伝わるやわらかさに、指先が荒く脈を打つ。
「ちょっ、燭台切……!」
「もちろん、君が望むことは出来る限り叶えてあげたいと思ってるし、君の嫌がることは一切しない。約束するよ」
健気にも聞こえる言葉の裏で息を殺しているのは強慾な希いだ。“君が望むこと”、その全てが己となる日が来るようにと。
雌雄を決する瞬間は、着実に近付いていた。腰を屈めて顔を寄せれば、震える唇がひゅっと音を立てて空気を呑み込む。追撃の手を緩めず、燭台切は強かに畳みかけた。鼻先が触れるくらいに距離を詰め、最早なまえには逃げ場もない。
間近で揺れる瞳は己の姿だけを映している。このまま何もかも奪い尽くしたい衝動を、もっと性質の悪い奸邪な理性が握り潰した。
「ね、主。僕に任せてくれれば、きっと後悔はさせない。だから、駄目、かな?」
燭台切光忠は知っていた。
持って生まれた艶声の使い方を、うつくしい貌の使い方を、誰に教えられずとも知っていた。
「わ、分かった、分かったから……!」
――勝負あり。
瞼を固く閉じ、上擦る声でなまえは白旗を掲げた。思わず弧を描いた卑しい口許は、おかげで見咎められることもない。
華々しいとはとても飾れないが、言質を取った燭台切の勝利には違いなかった。了承と呼べるかどうかも危うい返答に何が伴っていなくとも、一度口にした言葉をなまえは決して引っ込められない。彼女はそういう主だった。そして今はもう、ただの主ではない。己だけが手にした特別の肩書きを、燭台切は永劫手放すことはないだろう。この身が折れるその時まで。
身体を引いて姿勢を正し、音を立てないように熱の籠った息を逃がした。頬を離れた手はなまえの頭の上へ。幼子にするようにぽんぽんとそこを撫でながら、無意識に自らをも落ち着かせようとしていたのかもしれない。なおも拍動する昂りを、彼女を迎えるのに相応しい穏やかな微笑みの下に押し込めた。
「……決まりだね。それじゃあ早速、君をエスコートさせてくれるかい?」
差し伸べた手の黒革を、今は外せない。隠し切れない熱が触れた肌を灼いてしまうかもしれないから。
恐る恐るといった体で瞳を開いたなまえは、眼前に差し出された手と燭台切の顔とを交互に見遣る。考える間も与えなかったのはこちらの方だが、その場しのぎで口にしてしまった答えに彼女はなんとか着地点を見つけようとしているようだった。未だ燭台切には、これまで積み上げてきた信頼という名の武器が残っていた。二人で出掛けられればそれでいい、君の嫌がることはしない、その言葉をなまえは疑わない。事実、そこに偽りはなかった。いつか彼女が、自らこの身のすべてを欲するようになるまで――その日まで離してやらない、それだけのことだ。
細い喉がこくりと上下する。やがて覚束ない軌道を描いたなまえの手は、待ち受ける燭台切のそこへと躊躇いがちに重ねられた。絡めて結んだ指が鎖になることを、なまえはまだ知らない。
空っぽの器の中へ、溶けた鋼のように煮えたぎる熱を少しずつ流し込む。
ゆっくりゆっくり時間をかけて、冷めないそれを溢れるくらいに注ぎ満たして、そうしていつかは心ごと蕩かせてしまいたい。濡れた瞳で己だけを映し、しどけなく開いた唇が己の名だけを紡ぐ声音を思って、燭台切はひとり背を震わせた。その瞬間を狂おしく待ちながら、今はまだ手のひらの外側にある楔をやさしく砥ぎならすのだ。
穿たれるそれが、ふたりをつなぐまで。