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アシンメトリー

 夕日を映した川面が、オレンジ色に輝いている。
 ときどき吹いてくるほんの少しだけ冷たい風が、辺り一面に生えた短い草をさわさわと揺らしていた。
 真上に顔を向ければ、茜雲がゆっくりと空を流れていくのが見える。
 教科書のたくさん入ったわたしのそれとは違って、中身が入っているのかも微妙そうな鞄を枕にした男と一緒に、わたしは川原に寝転がっていた。
 ちら、と視線を横に倒してみる。
 彼のお腹の上で、可愛いというよりは生意気そうな顔をした赤ん坊が、気持ち良さそうにすやすやと眠っていた。魔王だとか魔界だとかの途方もない話も、今ではなんとか乗り越えられたのだと思う。そしてその結果、人類を滅亡させるために遣わされたというこの赤ん坊も、わたしにとっては嫉妬の対象でしかなくなったのだった。我ながら、情けないとは思うけれど。
 大の字に投げ出された四肢。
 彼の真っ黒い短ランと、その対にもなれないわたしの深緑のブレザー。
 感傷的な気分になってしまうのが、全部この夕暮れのせいだったら良かったのに。
 デーモンだとかアバレオーガだとか、とんでもない名前で呼ばれていたこの男のことが、わたしは中学の時から好きだった。
 確かに彼は凶悪で傍若無人で、天然サドで悪魔のような男ではあるけれども。それでも、根は決して悪い奴じゃないんだって、わたしは分かっているから。

 好きになったきっかけなんて単純なものだった。
 中学時代わたしは他校の変な男から言い寄られていた時期があって、それがあまりにもしつこいものだったから、一度その男をこっ酷く振ったことがあったのだ。そうしたら実はその男は不良グループのリーダーで、思いっきり恨みを買ったわたしは本当に同年代かと思うようなガラの悪い連中に囲まれてしまい、絶体絶命のピンチに陥ってしまったのだった。そんなところを助けてくれたのが彼――男鹿辰巳だったのだ。
 彼が不良たちを一掃したあと、わたしを心配して駆け寄ってきてくれたのは当時から彼の友達だった古市の方だったけれど、わたしは「あー疲れた」だとか言いながらさっさと行ってしまった男鹿の広い背中に恋をしたのだ。
 元々あまりいい噂は聞かなかったし、外見だってお世辞にも柄がいいとは言えなかったから、それまでは隣のクラスの彼を怖いと思っていた。
 けれどその日を境に、彼に対するそんな印象は180度変わってしまったのだ。
 次の日、学校での昼休み。友達もいない隣のクラスに入って、わたしは彼にありがとうと言った。礼はコロッケパンでいーぞ。そう返してくれた彼の声音、抑揚、表情。今でも全部、鮮明に覚えている。
 それ以来、わたしは何かと彼らにくっつくようになった。最初は変な奴だと言われてしまったけれど、それでも追い払われることはなかったから、わたしはずっとそうしていた。
 男鹿と古市とわたしの三人でいる時間はそれから次第に増えていって、いつしかわたしにとっても彼らにとっても、みんなで一緒にいることがごく自然で当たり前のことのようになっていたのだった。

「おい、聞ーてんのか?」
「聞いてるよ。プレステが真っ二つでしょ?」
「そーなんだよ! ったくあの女……!」
 赤ん坊にさえ妬いているわたしが、彼と同居しているというヒルダさんに妬かないはずがない。
 わたしは会ったことはないけれども、古市によると美人な上に巨乳だというおまけまでついているらしい。今のところ男鹿からは彼女の愚痴しか聞いたことがないけれど、この男から女の人の話を聞くのなんて、お姉さんのことだけだと思っていたのに。まあ、彼にとってのわたしは友達なのだから、どうこう言う権利もないのだけれども。
 "あいつは苗字のこと、ダチとしてホントに大切に思ってるよ。"
 まだ中学生の時に古市がくれたこの言葉が、きっとわたしたちの全てなのだ。
 古市には早々に気持ちを気付かれていた。そうなんだろ、と指摘されて頷いたわたしに、彼は困ったように笑いながら「悪いことは言わないからやめとけ」と言った。あいつはそういう経験なんてないだろうしそういう方面に興味もないだろうし、だいたい初恋もまだのようなヤツだし、お前にはもっといい男がいると思うよ、と。彼が何を思ってそう言ってくれたのかは、思い当たることがありすぎて逆に分からない。男鹿とでは一般的な男女付き合いは期待出来なさそうだとか、デーモンだ何だと言われていた彼の隣を歩くにはわたしはどうしたってひ弱すぎるだとか。男鹿は強いけれども敵が多いから、わたしが面倒事に巻き込まれることを心配してくれたのかもしれない。
 友人の忠告はもっともだった。
 それにわたし自身でさえ、この恋は中学卒業と同時に終わるものだと思っていたのだ。
 わたしには初めから、彼らを追って石矢魔に入学するつもりはなかった。一緒にいたいからという理由だけで通うには、あの高校はわたしにとってはあんまりすぎたのだ。
 クラス替えをしただけで疎遠になる友達だっているんだから、別の学校に通うようになれば尚更そうなるだろう。公立の中学校には本当にいろんな人が混在していて、そのおかげで出会えたようなものだし、あの出来事がなければ彼を好きになることもなかった。だから、せめて卒業までの間はこの想いを大切にしようと決めていた。あの頃はまだ、傍にいて好きでいられるというだけで、満足していたから。
 でも、結局そうはならずに、わたしは未だに古市の忠告にも従えていない。
 高校入学直後の慌ただしい中、男鹿から一通のメールが来たからだった。
 アドレスこそ知っていたものの、それまで彼とやり取りをしたことは一度もなかった。お互いあまりメールをする方でもなかったし、そもそも毎日学校で会っていたんだから、メールをするような必要も内容もなかったのだ。古市とはときどき「宿題なんだっけ」だとか「テスト範囲どこだっけ」だとかの応酬はあったけれど、男鹿にはそれも無縁のことだったから。
 そのはずだったのに、中学を卒業した途端に彼の方からメールが来るようになったのだ。
 それはたとえば「ヒマだ」とか「コロッケ食いたい」とか「マンガ貸してくれ」だなんてどうでもいいような内容ばかりだったけれど、そうだからこそ、まだわたしたちの繋がりは切れていないのだと思えた。以来そんな調子で、週に一回くらいではあるけれど、わたしたちは連絡を取り合うようになった。わたしの方から送ったときは、返信が来ないなんてこともよくあるのだけれども。
 別々の高校に入ってからしばらく経った今でも、こうして会って話が出来るだなんて、あの頃は思ってもみなかった。
 男鹿はわたしを変わらず友達だと思ってくれているし、わたしも彼を好きだという気持ちを忘れなくていいのだ。わたしには、それが本当に嬉しかった。
 そしてほんの少しだけ、切なかった。

「なー」
「うん?」
「何で石矢魔来なかったんだよ」
 何も考えていないにしたって、タイミングが良すぎるんじゃないだろうか。
 こんなことを考えている時に、よりにもよってこんなことを言うなんて。
「……普通の人はあんなとこ行けないよ」
「そーか?」
「そうだよ」
 この男に理解しろと言う方が難しいのかもしれないけれど、わたしが石矢魔に行くということは猛獣の檻に餌を投げ込むことと同義だと思う。
 それに、あんな場所では、わたしが彼にしてあげられることなんてきっと何ひとつないのだ。
「男鹿みたいに強ければいいんだろうけど、」
 暴力を全て悪として理由も聞かないままに片付けてしまう、そんな少しだけ間違った秩序が築かれていた中学校では、わたしでも言葉でもってそれに刃向かうことが出来た。本人に自覚があるかどうかは別として、何かとその秩序の被害者になっていたこの男の立場を守ろうとすることが、わたしにでも出来たのだ。
 けれども石矢魔はそんな場所じゃない。むしろ力が全てを支配している、というか。まあ通っているわけでもないのだから本当のところは分からないけれど、話を聞いている限りはきっとそんな感じなのだと思う。
「わたしなんかひとたまりもないでしょ。身の危険なんてレベルじゃないし」
「まあお前モヤシだしな」
「うるさい」
 守れないだけじゃなくて、守られるしか出来ないなんて。わたしにはちょっと、耐えられそうにない。
 わたしは、この男の弱点になることは嫌だから。
「けどよ、オレがいんだろ? ……あと一応古市も」
 ぎゅう、と胸が締めつけられたようになる。
 こんなだから。
 わたしの気持ちになんて少しも気が付いてくれないけれど、こんなだからわたしはこの男が好きなのだ。
「……ありがと」
「あん? 何か言ったか?」
「なんでもない」
 もう一度、視線を彼の方に向けてみる。
 投げ出された大きな手は、手を伸ばせば届く距離にあった。
 あんなことを言われたせいだろうか。それとも黄昏の色に中てられたからだろうか。
「……どーした?」
 気付けばわたしはその手を掴んでいた。
 熱くもなく冷たくもない温度に、思わず好きだと告げてしまいそうになるのを何とか抑えつける。大丈夫、本当に本当に我慢出来なくなるまでは、まだ言ったりしないから。
 あんたにとって、わたしは大事な友達なんだもんね。
「……どうもしてない、よ」
 わたしたちは、それきり何も言わなかった。
 彼のことだから、きっと深いことなんて何にも考えていなくて、ただなんとなくの行動だったんだろう。それでも手を握り返してくれたこの男を、わたしは心底ずるいと思うのだった。