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きみはろくでなし
「今の見た? すんげぇ巨乳」
それはこの上ないほどに端的な評だった。
昼時のショッピングモールでたった今すれ違ったその女性は、胸元の大きく開いたタイトなニットで自らの武器をこれでもかというくらいにアピールしているように見えた。いったい何を食べればあんなに立派なものが手に入るのだろう――と驚くほど豊かなそれに抱いた羨望と少しの妬ましさは、隣からそんな言葉さえ聞こえてこなければ、この一瞬限りで引きずることなく消化できていたと思う。
「二度見してたよね修二くん」
「ばはっ、そこまでバレてんのかよ怖ぇ~」
不躾な所作を指摘してやれば、修二くんはおどけてそう言った。バレるも何も、すれ違いざまに思いきり振り向いていた彼には初めから隠す気なんてなかっただろう。二度見だけにとどまらず、コンプレックスだと知っていながら敢えてその話を振ってきたあたり、彼はわたしに喧嘩を売っているのかもしれない。けれどもわたしは彼と違って武闘派戦闘民族ではないので、やり返せることはと言ってもせいぜい卑屈になって嫌味を投げつけるくらいが関の山だった。
「目の保養ができてよかったね、普段はできないもんね」
「オイオイ拗ねんなよ。だいじょーぶ、顔は余裕でなまえちゃんが勝ってっから」
「そんな取って付けたようにフォローされても。あーあーどうせわたしは貧乳ですよ悪かったですね」
「気にすんなって。オレは好きだぜ? なまえちゃんの、あんのかねーのかわかんねぇおっぱい」
「今のは言い過ぎでしょ!?」
自分自身を好戦的ではないと定義付けたばかりのはずが、つい怒気を丸出しにして言い返してしまった。その部分さえなければ少しは浮かばれていた可能性だってあったのに、「あんのかねーのかわかんねぇ」はさすがにあんまりだと思う。思いたかった。しかし、特定の状況下にあっては彼の言葉を必ずしも否定できないということに、不幸にもわたしは気が付いてしまう。要するに、彼の前にそれを晒すときの体勢を考えてみれば圧倒的に仰向けになっていることが多く、そうなるとわたしのそれに重力に抗えるほどの根性はなく、結局「あんのかねーのかわかんねぇ」はそれほど度が過ぎた表現でもなくなってしまうというわけだ。
「……ちょっとはあるもん」
先ほどの威勢はあっという間に萎んだ。“仰向けじゃないときは”を省略したことだけがせめてもの意地だった。男の身長と女のバストサイズは価値基準がほぼ同じだと聞いたことがあるけれど、それが本当なら修二くんにわたしの気持ちは絶対に分からないだろう。彼より背の高い人なんて、わたしは身近で見たことがない。
「なぁなぁ、やっぱ今からホテル行こ」
――ほらやっぱり一ミリも分かってくれていなかった。努力ではどうにもならない問題に打ちひしがれているところに、そんな身も蓋もない予定変更を提案されてため息が出そうになる。だいたい今日は初めから彼と出掛ける計画だったわけではない。修二くんはそこそこの頻度で寝過ごしたり何なりして二人で会う約束を反故にするし、そうでなくとも外出の誘いには「ダリィ」「金ねぇ」と乗ってくれずに家でダラダラすることになるのが大半だし、そのくせ自分の気が向いたときには前触れもなくどっか行こうぜなんて連絡を寄越してくる人で、今回もそのパターンだった。一人で買い物をするつもりで既に家を出ていると伝えたわたしに、じゃあ付いてくわと同行を申し出たのは彼の方だったのに。目星をつけていたお店だって、まだ一軒しか回れていない。
「やだ、行かない」
「つれねーなぁ。いいじゃん昼間っからでも♡」
「そういう問題じゃないよ。すんげぇ巨乳のお姉さんに興奮してる人から誘われたところで、その気になれると思う?」
「ちげぇって。ちっせぇの気にしてるなまえちゃんがかわいくてムラムラしちまったの」
彼の言葉をそのまま嫌味に混ぜ込んでみても、修二くんはどこ吹く風で調子のいいことを言い、大きな手でわたしのそれを拾うと恋人繋ぎの形で指を絡めてくる。と思えば、親指の腹を器用に動かして、第三関節の骨の辺りをすりすりと撫で回してきた。くすぐったさと、それだけではない感覚が呼び起こされて落ち着かなくなってしまい、わたしは抗議の意を込めて彼の方を見上げる。並んで歩くときはいつだって、首を上向けなければ彼の視線を捕まえられない。
「ダメ?」
修二くんは少し目を細めて、欲望と慈愛が同居したような眼差しをわたしに注いでいた。途端にわたしは、彼が訊くのとは別の意味でだめになってしまう。この双眸がつまらなさそうに虚ろなときも、悪戯っ子みたいにふざけているときも、狂気じみた何かを湛えるときもわたしは知っている。だからこそ、色とりどりの金平糖を雑に一掴みしてごちゃ混ぜに溶かしたようなこの目を向けられるとわたしの頭はたちまち馬鹿になって、何が不満だったのかも一瞬で忘れてしまうほど、幸福で満たされてどうしようもなくなってしまうのだ。
「……ずるい」
わたしはたまらず顔を逸らした。
「あん?」
「なんでもないよ。……ホテル代、修二くんが出してくれるなら考える」
「おー、ついでに好きなモン食わしてやるよ。寿司とか取っちゃう?」
「え?」
そして即座にもう一度彼を見上げることになった。
可愛げのないことを言ったのはただの照れ隠しで、最初から減額交渉には応じるつもりだったから、想定外に気前のいい返事に頭がついていかない。バイク回りにお金がかかるらしい修二くんはしょっちゅう金欠だと言っている。日頃から「おごってくんねぇパイセンとかいる意味ある?」などと嘯き、そうではない先輩のことを裏で財布呼ばわりしている彼から出たとは思えない台詞だ。
「なに、腹減ってないん?」
「そうじゃないけど、だって修二くんいつもお金ないって言ってるのに」
「今はあんの」
「スロット大勝ちしたとか?」
「んーん。昨日アホの集団に絡まれたからテキトーに全員ボコったら、頭っぽい奴が泣きながら三万置いてってラッキー♡ みてぇな感じ」
「うわぁ……」
腑に落ちた。正当防衛だし、オレは金とか要求してねぇし、向こうが勝手に差し出してきただけでカツアゲじゃねーから大丈夫だぜ、と修二くんは何が大丈夫なのかよく分からないことをすらすらと言った。少なくとも正当防衛の範疇を超えていたのは間違いないと思う。
「こないだオレ約束すっぽかしたじゃん」
「うん」
「そーいやなまえちゃんがなんかだりぃことにこだわってた日だったなーって」
二度目の「ずるい」をわたしは飲み込んだ。その日が交際半年の節目であったことをきっと今も認識していない修二くんは、それでも「わたしがなんかだりぃことにこだわってた」のは覚えてくれていて、彼なりの埋め合わせまでしようとしてくれている。こうなったらもう、そこに使われる原資には目を瞑るしかないだろう。せめて少しでも罪悪感を薄めようと、わたしは頭の中で言い訳を組み立てる。まず絡んでくる方が悪いし、絡んでいい相手かどうかを正しく判断できないのはなお悪い、そんなところだ。我ながらめちゃくちゃな理論だと思った。思考が彼に寄ってきているのかもしれない。
「あの日は付き合ってちょうど半年目だったんだよ」
「へー」
「だから一年記念日は一緒にいてね」
これは別に約束でもなんでもなく、所謂言うだけならただの、流れ星に託すのよりもずっとささやかなわたしの一方的な願いだった。
安定や安寧なんて言葉とは対極にある人だ。できることならいつまでもそばにいたいけれど、それが叶わないであろうこともどこかでなんとなく分かっている。ある日突然ふらりといなくなってしまっても、修二くんなら不思議ではない。一年記念日なんて来ないのかもしれないし、もしかしたら七か月記念日すら来ないかもしれない。――それでもわたしはこの人がいい。不良でも面倒くさがりでも変なお金しか持っていなくてもいい、修二くんじゃなければ意味がない。掴みどころのない彼の心の一部でも、こうしてわたしのために割いてくれる今があるから、わたしはこの気持ちだけを抱きしめていられる。
「それ百パー忘れっから当日もっかい言ってくんね?」
呆れるくらいに怠惰な要望は、半年先の未来を当たり前のように内包していた。わたしはすぐに返事ができず、骨張った手をぎゅっと握りながら彼を見つめる。
「なまえちゃん?」
瞳の中のわたしが、彼を死ぬほど好きだと言った。