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破約

「オマエさぁ、なまえちゃんと別れてくんね?」
 身体中から嫌な汗が噴き出した。
 軽薄な口調に対して、レンズ越しの視線はぞっとするほど冷たく、それでいて苛烈だった。――人殺しの目だ。世にいる大多数の人々と同じくそれなりに善良な人生を送り、これまで加害とも被害とも無縁に過ごしてきたはずの僕が、瞬時にそう確信するほどに絶対的な悪の色。ほんの僅かな間だけ隠していたそれを今や惜しげもなく曝け出して、男は僕よりもずっと清廉で心優しいひとの名を烏滸がましくも口にした。
 逃げてはいけない、怯むわけにはいかない。彼女との未来を守るためには、何があってもここで戦わなければならない。恐怖を押し殺しながら、僕は目の前の男を必死に睨み返した。
 
 ――すみません、苗字なまえさんとお付き合いされている××さんですよね?
 仕事帰りの人々が行き交う夜の雑踏の中、背後から掛けられた声に振り向いた先で、こちらを見下ろす長身の男は明らかに異質な雰囲気を纏っていた。金のメッシュが入った髪、左耳にくっきりと空いたピアスの穴、冬でもないのに皮の手袋。それ単体であれば何らおかしなところのない上質そうなスリーピースのスーツも、これらの特徴と合わさると余計に怪しさを強める材料となっていた。およそ一般的な会社員からはかけ離れたその風貌だけで、関わってはいけない相手だと頭の中で警鐘が鳴る。それでも逃げるという選択肢がなかったのは、もちろん最愛の恋人の名を出されたからだった。
 取引先の担当者として出会ったなまえさん。優しく可憐な彼女にほとんど一目惚れのような形で恋に落ちてから約二年、気持ちを受け入れてもらえるまでに何度振られたことだろう。初めのうちは「誰とも付き合う気はない」と門前払いだった断り文句は、いつしか「どうしても忘れられない人がいる」に変わり、それでもいいと諦め切れずに想いを伝え続けた長期戦の果てに、とうとう彼女は根負けし、先日ようやく交際にまで漕ぎ着けることができたのだ。
 その恋人について、男は信じられないようなことを口にした。私こういう者です、と差し出された名刺には、半間修二という名前と共に、金融会社と思しき社名が記されていた。半間という男曰く、なまえさんが彼の会社から数百万の借入をしているが返済が滞っており、一切の連絡にも応じない状態になっているという。彼女に限ってそんなことは有り得ない、何かの間違いだろうとは思ったが、動揺のあまりその場でうまく問い質すこともできず、結局促されるままに僕は男の後を追従し、喫茶店でテーブルを挟むことになってしまった。
 二人分のコーヒーが運ばれてくると、半間は「では早速ですが本題に入りますね」などとわざとらしいことを言いながら手袋を外した。その瞬間露わになった「罪」と「罰」の二文字に、僕は思わず息を呑む。そしてそれを合図とするかのように、目の前の男は慇懃無礼の皮を脱ぎ捨て、僕になまえさんと別れるよう迫ったのだった。
 
「借金なんざ嘘に決まってんじゃん。チョロすぎてウケるわ、なまえちゃんがんなモンに手ぇ出すかよ」
 半間は懐から取り出した煙草に火を点けながら、こちらを心底馬鹿にした調子でそう言った。なまえちゃん。彼女のことを知っているような口振りで、馴れ馴れしくその名を呼ぶことに途轍もない嫌悪感を覚える。
「どういうつもりだ。お前、彼女の何なんだ……!?」
「元カレ♡」
 嫌悪はたちまち怒りに変わった。それは許容できる戯言ではなかったからだ。もはや彼女に対する侮辱にも等しいと思った。
「ふざけるな……! その刺青といい風貌といい、反社の人間だろう? なまえさんがそんな奴を選ぶはずがない!」
「付き合ってた頃はまだ違ぇよ。……ま、今はそーだし、邪魔な彼氏くんバラバラにして魚の餌にしてやってもいいんだけどなぁ?」
 愉快そうに目を細めながら発されたのは単なる恫喝ではなく、この男にとって現実に可能な手段なのだ。唾を飲み込んでしまった僕を嘲るように、半間は喉奥で笑った。
「やんねーよ。なまえちゃんに嫌われたくねぇもん」
 だから穏便に話し合いで解決しに来たんだわ、と続いた言葉は完全にこちらを揶揄していた。暴力団員の言う穏便が、世間一般のそれを意味するはずがない。けれど、第一に考えなければならないのは彼女の安全だ。
「……何が目的だ? 彼女をどうする気なんだ?」
「どーもこーも、フツーにヨリ戻してぇだけ。でもなまえちゃんって責任感の塊みてぇな女じゃん? いくら大好きだった元カレと再会したって、簡単に今の男振ったりできねぇだろ? だからオマエから別れてくれれば、オレらは円満元サヤでめでたしめでたしってワケよ」
 今の話でなんとなく理解した。なまえさんが責任感の塊であるとの評は、僕の認識とも一致する。おそらくこの男は以前、そこに付け込んで彼女を脅していたのだ。目障りな僕を引き剥がし、再びいいように弄ぼうという腹だろうが、二度とそんなことを許してなるものか。
「黙れ妄想狂。弱みを握って言うことを聞かせていただけだろう?」
 僕の追及にも、半間はニヤついた顔を全く崩さなかった。僕なんていつでも排除できるという余裕だろうか。だが、これから少しでも脅迫めいたことを口にすれば、すぐに警察に突き出すまでのことだ。初めに声を掛けられた時から起動していなかったことは悔やまれたが、会議の録音のためポケットに入れていたICレコーダーは既にスイッチを入れている。幸い僕には頼れる弁護士の友人もいるのだ。犯罪者に屈したりなどしない、真面目に生きている人間が馬鹿を見るようなことなどあってはならない。
「オマエはそう思いてぇよなぁ。けどそれじゃ困っから、そろそろ証拠出してやるわ。ホントはあんま見せたくねーんだけど、ほらよ」
 示されたスマートフォンの画面に目を向けた瞬間、僕は鈍器で頭を殴られたかのような衝撃を受けた。映っていたのは、少し色褪せた紙の写真を上から撮影した画像で、若い男女のツーショットだった。女性の方は制服を着ていて、満面の笑みを浮かべながら隣の男に身体を預けるように頬を寄せているなまえさん。そして男の方は、髪型のせいで印象は異なるが、顔の造形から間違いなくこの男――少年の頃の半間修二だった。
「かわいいだろぉ? 十二年前のなまえちゃん」
 そこまで昔の話が出てくるなんて予想もしていなかった。そもそも、交際をしていたということ自体が、この男の虚言だと思っていたのだ。それを一瞬で打ち砕かれ、頭を過ぎるのはなまえさんの言っていた「どうしても忘れられない人」の存在だった。まさかこの男がそうなのだろうか。そんなはずはない。自分の十二年前、高校時代の恋愛を思い返してみれば、確かに当時は楽しかった。けれど今となってはあまりに幼い、ままごとのようなものだったと思う。だからきっと違う、十二年もの歳月の中で、なまえさんのような素敵な人に寄り添おうとする男が現れなかったわけがない。
「なぁ、オマエもうなまえちゃんとヤった? 何回ヤったん?」
「こ、答えるわけないだろう!」
「ふーん、だりぃ。やっぱ殺したくなってきたわオマエ」
 こんな風に最低なことを聞いてくる輩が、なまえさんの特別だったなどとはやはり思えなかった。低められた声が僕の返答をどう捉えたのかは知らないが、なまえさんとはまだ恋人らしいことは何もしていない。だが、僕たちは始まったばかりだ。十二年前の彼女とこの男がどうであろうと、なまえさんの今の恋人は僕なのだ。彼女は僕の想いを受け入れてくれたではないか。過去の男に、何を気後れする必要がある。
「……そんなに執着していたなら、彼女に見合う人間になればよかったんだ。反社になって殺すだの何だの言っている奴なんか、逃げられて当然じゃないか」
「あ? 誰が逃げられたんだよ。別れたのオレからだぜ?」
「っ、だったら尚更なぜ彼女にこだわる? 自分が十二年も前に捨てた相手が、今になって惜しくなったのか!?」
 そのとき、これまで僕に注がれていた嘲弄が突如として自身に矛先を向けたかのように、半間が表情を変えた。下がり眉を更に八の字に寄せ、呟き落とされた声はあまりに苦々しげだった。
「……あんときゃオレもガキだったからさぁ」
「……何?」
「ただ喧嘩が強ぇってだけじゃ駄目だった。他にどうしようもなかったんだよ」
 そこからの言葉は、全てが思いもよらないものだった。口調はどこまでも軽薄なままなのに、それはまるで懺悔にも聞こえ、僕は一言たりとも口を挟むことができなかった。
「なまえちゃん、オレが理由で一回襲われかけてんの。報復とかだりぃこと言いやがって、当然仕掛けてきた奴らは漏れなく手足四本と歯ぁ全部折ってタマも潰してやったけど、正直ゾッとしたんだわ」
「……」
「今回は間に合った、でもまた同じことが起こるかもしんねぇ、じゃあ毎日二十四時間守ってやれんのかっつったら十六のガキにそんなん無理じゃん。ならどうすんだって、この先オレのせいでなまえちゃんになんかあったらって、ンなこと考えてたらもう訳分かんなくなっちまってよ」
 だから半間は彼女を手放したという。やっていることはただの私刑で度を越した暴力でしかない、それでも唯一なまえさんに対してだけは、この男は真摯であったのだ。彼女を思い、その身を案じ、今の僕と同じように、彼女を害される恐怖を感じていたのだ。
「けど今は違う。オレが見ててやれねぇ間も安全な場所に置いておける。その環境も金も力もある」
「な……んだ、それ。軟禁でもするみたいじゃないか……」
 ようやく出すことのできた声は、自分でも情けなくなるほど弱々しいものだった。そんな僕の態度にも、半間はもう薄ら笑いを浮かべることもなく、ただ静かに言葉を続ける。
「言い方の問題だろ? 別に足枷つけようってんじゃねぇ、オレの仕事中に大人しく留守番しててくれりゃあそれでいい」
 ――その代わり、一緒にいる間はなまえちゃんの望むこと全部叶えてやるし。それもこの男の本心なのだろう。たとえその手段がどんなに汚いものであれ、なまえさんのことは、なまえさんのことだけはきっと悪いようにはしないのだと、嫌でもそう確信させられてしまう。
「昔は逆で、なまえちゃんが何でもオレの世話焼いてくれてた。メシ作ってくれたり、身の回りのめんどくせぇことも全部ニコニコしながら修二くん修二くんってさ」
 屈託なく笑っていた写真の少女。それは僕のよく知るなまえさんではないのに、甲斐甲斐しくこの男に尽くす彼女の姿がありありと思い浮かんだ。鈴を転がすようなあの声で、愛おしげにこの男の名を呼ぶ幻聴すら伴って。
「いっつも笑ってたから、別れたくないって縋りついてきた時のひっでぇ泣き顔が余計忘れらんねぇの。あんな内臓抉られるみてぇな感覚初めてでさぁ、突き放すのマジでしんどかったんだよな……」
 もはや僕の存在など忘れたかのように、半間は遠い目をしながら語った。気付けば両足が震えている。それはここへ来た当初に感じていた、犯罪者と対峙することへの恐怖のせいでは少しもなかった。
「あーあ。思い出したらなんかシラけちまったし、今日はゴアイサツってことでこの辺にしといてやるか。けどよぉ、オマエがなまえちゃんと別れるまで、オレは何度でも会いに来っからな♡」
 最後の最後で元の調子を取り戻した半間は、伝票を手にそう言い残し、足早にこの場を去っていく。それを引き止めるどころか、僕はしばらく身動きを取ることさえできなかった。
 深呼吸を繰り返し、膝の震えが鎮まってから、冷め切ったコーヒーを一息にあおって動揺と焦燥を押し流す。なまえさんの忘れられない相手が他でもないあの男であることを、僕はいい加減に理解していた。ただ、そうである以上、僕が為すべきはそれを臆さず認めることだけだった。
 心の中でもう一度、なまえさんの今の恋人は僕だと繰り返す。出会う以前のことを言ったところでどうにもならない。当時の半間はいわゆる不良少年の範疇に収まっていたのだろうし、なまえさんは思春期にありがちな、少し悪いものに惹かれてしまう少女だったというだけの話だ。その時間が大切なものだったのならばもう否定はしない、それがあっての彼女なのだと受け止める。
 だが、だとしても今のあの男はあまりにも危険だ。半間は明確に己を反社であると言い、僕を殺せると言った。なまえさんを直接傷つけることはなくとも、次は本気で僕を脅しにくるだろう。僕の友人や家族に危害が及ぶこともあるかもしれない。
 本来ならばなまえさんに心配をかけぬよう、僕の側だけで解決するのが望ましいのだろう。警察や弁護士など然るべき機関の力も借りればきっと不可能ではない、それでも僕は、全てをなまえさんに打ち明けることにした。なぜなら僕らの間には、なまえさんが絶対に守ってほしいと言った「大事なことは一人で決めない、必ず相談する」という約束事があったからだ。彼女の気持ちが揺らいでしまうことを危惧しなかったと言えば嘘になる。それでも僕は彼女を信じていた。彼女の良識を信じていた。たとえ一度は泣いて別れを拒むほど好いていた相手でも、犯罪集団に身を堕とし、ましてや人の命を奪うような人間を選ぶことなどないのだと。
 僕は彼女の自宅へ向かい、先程までのことを話し、その痩躯を抱きしめて、何があっても守ると伝えた。その間、なまえさんは僕の腕の中ですすり泣いていた。あの男が僕の前に現れなければ、彼女の青春時代の思い出が汚されることもなかったのにと歯痒く思う。もう二度と泣かなくていいよう、こんなことを思い出す暇もないほど笑っていられるよう、全力で彼女を幸せにすると僕は誓った。

 ――その後、半間修二が僕の前に現れることは二度となかった。