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ないものさがし

 ――どうしてあなたじゃなかったんですか。
 声なき恨み言を、何度その背に投げつけたのかはもう知れない。
 あまりに理不尽で身勝手でどうしようもなくて、口にすることさえ叶わなくても、それでも願うだけなら許されると思いたかった。
 あなただけの私でありたかったと。

 聞き慣れた規則正しいリズムが、部屋の扉を三度叩いた。
 鍵を開けるのに誰何はいらない。ノックの仕方と訪問者とを、中島が結びつけられる相手はただ一人だけだ。扉を開けば、思い描いたとおりの人物が姿を見せた。――会いたかったひと。いつでも顔を見ていたいと、そう願ってしまうひと。
「こんにちは。頼まれてた論文、用意できたわよ」
 手にした冊子を軽く掲げて微笑む彼女――苗字なまえは、帝國図書館特務司書に名を連ねる能力者の一人だ。まだ年若い娘だが、在学中にアルケミストの才を見込まれ卒業後はすぐに特務司書の職へ登用されたのだと聞いている。
「すみません。お忙しいのに、ありがとうございます」
 受け取ったのは、帝國大学の教授が近年発表した古代中国史に関する論文だった。歴史を趣味とする中島は、自由を許された時間にはそれに関連した書物を紐解くことも多い。現代の研究者には独自の視点から興味深い考察をしている者もおり、この大学教授もそのうちの一人で、一度論著をじっくり読んでみたいと思っていたのだ。
 館内には文豪たちに向けた図書の購入申請書と投函箱が設置されていて、蔵書にない本も気軽にリクエストできるようになっている。審査はあるが、余程の内容でない限り申請は通っているようだし、学会誌のように出回りにくいものでも大概は揃う。だが、中島はそれを利用せず、直接なまえに手配を依頼していた。申請の場合は入荷通知が届くだけだが、彼女に頼めばこうして持ってきてくれるのを知っているからだ。もちろん書架へ向かうだけの労を惜しんでいるのではない。彼女と顔を合わせる機会を少しでも多く持ちたい、そう思うが故のことだった。
「……ついでって訳じゃないんだけど、ちょっと話がしたいの。今、大丈夫?」
 もしかすると届け物を置いたらすぐに去ってしまうのでは、と抱いた懸念は、引き留める口実を見つけ出す前になまえの方から打ち消してくれた。中島は頷き、彼女を室内へと招き入れる。口振りからするとあまり良い知らせではないのかもしれないが、それでも構わない。今の中島にとって、二人で過ごす時間に代えられるものなどひとつもありはしないのだから。
「何のおもてなしも出来ませんが、どうぞ」
 自分たちに与えられている個室は、広めの学生寮のような作りになっている。書き物をするのに十分な机と椅子は元々備えつけられているが、応接用の家具は置かれていない。中島となまえは寝台に並んで腰掛ける格好になったが、彼女は特に戸惑う風でもなかった。日中とはいえ密室に二人きりなのだ、もう少し警戒されてもいいような気はするが、中島とてこれまで築いてきた彼女との関係を、一時の衝動に任せてめちゃくちゃにするつもりもない。
「……新しい有碍書の話は聞いてるでしょ? 一回目の潜書、あなたにも入ってもらうことになったの」
「ええ。昨日、筆頭司書さんから伺いました」
 帝國図書館は、男女合わせて五人の特務司書を擁している。
 彼らはいずれもアルケミストとしての能力者で、文豪の転生や補修のほか、潜書記録の作成や統計などを各自分担しながら任務に当たっていた。みな比較的若年ではあるが、その中で最も年長の男が司書たちのまとめ役となり、館長不在が多いこの図書館で特務活動の舵取りを担っている。他の司書と上司部下の関係となっているわけではないので、便宜的に筆頭と呼ばれていた。会派の構成を決めるのも、主にはその男の役割である。
「……わたしなら、あんな編成しないんだけどな」
 新たな有碍書が見つかる度、それに巣食う侵蝕者の禍々しさが増している現状にあっては、多少の遠回りをしてでも会派の安全を優先に潜書を進めるべきだというのがなまえの意見だ。まずは偵察のつもりで、身軽で遠隔攻撃のできる射手や狙撃手で会派を組んではどうか、というようなことを提案したらしい。それに対して、筆頭司書はとにかく迅速に浄化をなすことに重きを置いているのだという。侵蝕者との戦いは未だ鼬ごっこの様相を変えてはいないが、一度浄化した文学書は再度の侵蝕を受けることはあっても、初めに比べてその程度は軽く済む。だからまずは一度目の浄化を遂げることが肝要であり、それには殲滅力が高く身を守るのにも長けた刃の使い手を中心に据えるべきである――等々と説かれ、議論の果てに結局なまえは折れることにしたのだそうだ。今回の会派は中島のほかに刃を得物とする文豪が二人、残る一人が銃を用いる。筆頭司書は中島を――正しくはもう一人の中島をそれなりに買っているらしく、会派に組み込まれることは少なくなかった。
「まあ、年嵩なだけあって博識だし、頭も切れる人だしね。あの人のやり方で今までうまくいってるんだもの、あんまり口出しもできないでしょ?」
 同意を求めるような口振りは、彼女が自身に言い聞かせているようでもあった。男の言うことも決して理解できないわけではない、それはなまえとて同じなのだろう。それでも彼女が物申したのは、戦いに出向く自分たちの身をいつだって案じてくれているからだ。
「……酷使してくれるな、って言われたばっかりなのに」
「え?」
「こっちの話。とにかく、気を付けてね。余計なお世話かもしれないけど、心配してるんだから。……これ」
 制服の上着に手を入れ、なまえは懐から何かを包んだ白い絹布を取り出した。ずい、と目の前に差し出された手のひらの上でそれが開かれると、姿を現したのは小さな双角錐の形をした赤い結晶体。紅玉のように深く澄んだその光彩は、中に炎でも飼っているのかと思わせるほどで、物珍しさについじっと覗き込んでしまう。そうしてしばらく見入っているうちになまえは焦れたのか、膝上の手を取られて直接その結晶を握らされた。じんわりと温かいそれが霊石の類であるらしいことは、なんとなく察しがつく。
「賢者の石……ですか?」
 思い浮かんだものの名をそのまま口にしてみると、なまえはまさかと笑った。
「それが錬成できれば超一流なんだけどね。残念ながら今のわたしはまだまだ。これはそんな立派なものじゃなくて、ただのお守り」
 彼女曰く、この石は持つ者に幸運を呼んだり危険を遠ざけたりすると言われているらしい。単体でもそういう力のある素材を組み合わせて錬成することで、足し算以上の効果が付加されるのだという。下級錬金術、となまえは言ったが、鉱石を磨き上げる以外にこんな宝石めいたものを生み出す技があるというだけで、中島にとっては未知の世界だ。
「見た目の割に中身はお粗末だけど、ないよりはましだと思うから。持ってて」
「でも、貴重なものなのでしょう? 本当に私がいただいてしまっても――」
「あなたのために創ったんだけど?」
 言葉を遮られ、有無を言わせない笑みでもって押し切られる。他のみんなには内緒だからね。添えられた一言が、胸をぎゅうと締めつける。
「……ありがとうございます。大切にしますね」
 手の中の石を、中島はもう一度見つめた。
 不可思議な力で、異質の素材から生み出された新たなもの。アルケミストなる者の知力と技術の結晶。――彼女の被造物。
 個々ばらばらの物質をひとつのうつくしいものに織り上げる指先は、さながら創造主のようだと中島は思う。なまえの力なくしてこの石は存在し得なかったものだ。燃えるような輝きの中には彼女の一部が確かに融け込んでいる、それだけで中島は至上の価値を見出せる。そこに抱くのは羨望であり、嫉妬であった。
 中島が今生で初めて出会った相手はなまえではない。初めて聞いた声も彼女のものではないし、初めてこの肩に触れた手も彼女のものではない。この身体を形作ったのは、中島をこの世に転生させたアルケミストは、なまえとは別の人間だった。
 何気ない会話を装って彼女に尋ねたことがある。もしも自分を転生させたのがなまえだったなら、どうなっていたのだろうかと。彼女の答えは「何も変わらない」だった。転生させられた者たちの人となりも姿形も、全ては彼らの魂が決めること。アルケミストはその魂を器に入れて現世に保つだけ、肉体との間に介在して形式的な手続をなすだけで、だから誰がそれを行ったかは何の問題にもならない。なまえはそう言った。おそらくそれは真実だろうが、中島にとって救いにはならなかった。
 今の中島を存在せしめているのはなまえではない。その事実はどうしたって変えられないのだ。彼女が目覚めさせた全ての文豪たちが妬ましくて仕方がなかった。彼女に命を吹き込まれ、その身に彼女の一部を宿している彼らを憎らしいとすら思ってしまう。どれだけ切望しても、中島は決してそれを手にすることはできない。心の全ては彼女が占めているというのに、この身体のどこにも彼女はいないのだ。
「……仮に本の中で斃れたとしたら、この身体は跡形もなく消えてしまうのですよね」
 我ながら随分とひどいことを口にした。身を案じてお守りをくれたばかりの相手に向ける言葉としては最悪でしかない。案の定、なまえは途端に眉を顰めた。
「ちょっと、冗談でもやめてよそんな話」
 核を失った器はそれだけが抜け殻として残るのではなく、魂と同時に消滅するらしい。この図書館に前例はないが、司書たちがそのような話をしていたのを知っている。それでも文学に対する想いまでが消えるわけではない、きっと運命の巡り合わせでまたこの場所に喚ばれることだろう。
「もしそうなったら、今度はあなたの手で私を――」
「だからバカなこと言わないでってば!」
 なまえは声を荒らげた。
 両肩を掴まれ、細い指が軽くそこに食い込んだ。だが、こちらを睨みつけてくる両の瞳は、怒りよりも懇願の色を湛えている。
「……そんなことになったら、ここに来てからの記憶、全部消えちゃうのよ。今までのこと、全部なかったことになっちゃうのよ……!?」
 嫌だからね。わたし、そんなの許さない。絶対絶対だめなんだから。中島の肩を揺さぶりながら、なまえは嫌だ駄目だと繰り返す。怒らせるだろう、怒ってくれるだろうと思ってはいたが、これではさすがに罪悪感を禁じ得ない。
「なまえさん」
 とうとう彼女は顔を俯けて動かなくなった。肩に置かれたままの指先だけが、上着をぎゅっと握り込んでいる。
「……ひどいことを言ってしまいましたね。すみません。さっきの言葉は撤回します」
 謝罪を口にしながらも、後ろめたさの裏で喜びが確かに頭を擡げているのだから始末に負えない。弄ぶつもりは全くなかったが、真っ直ぐなひとの心をこうも乱しては罰が当たりそうだ。手の中の贈り物を傍らに置いて、邪な歓喜をかき消すようになまえの頭を撫でる。何度か繰り返しているうちに、彼女はそろそろと顔を上げた。
「……今度同じこと言ったら殴るからね」
 唇を尖らせて恨みがましそうに言い、そのまま倒れ込んで肩に額を押しつけてくる。宥めるように贖うように、中島は髪を撫でる手を続けた。やがて大きなため息とともに、彼女の身体から力が抜けた。
 仮にこのまま抱きしめたとしても、彼女はきっと受け容れてくれるのだろう。もうずっと前から、ただの仲間よりも一歩先の関係なのだ。言葉で確かめたことこそないが、想い合っているのは分かる。――だからこそ全てが欲しくなる。全てを捧げたくなる。この心が彼女のものならば、身体ごと彼女のものでいたかった。そう希わずにはいられなかった。
 この身が消えたら、今度はあなたの手で私を。それは何も今日になって初めて考えた話ではない。転生以後の記憶は残らないとなまえは言ったが、本当にそうだろうか。残留思念となり肉体に宿るのは、本当に生前の己の内にあったものだけなのだろうか。今の中島にとって、彼女へ抱く慕情に勝る想いなどないというのに。
 ――あなたが私を喚んでくれたなら。
 決して声にはできない願いが、またひとつ数を重ねた。


 ***


 ――いやあああ。
 女の司書が悲鳴を上げた。
 黒く穢れたままの書から戻った四人の男たちに、出立時の覇気は欠片も残ってはいなかった。会派は文字通りの壊滅状態。傷つき果てたその姿は、最早正視に耐えないほど。己の得物を掲げることもままならなくなったのは全員が全員、為す術もなく彼らは逃げ帰った。今度の潜書は、この帝國図書館で特務活動が始まって以来の大敗北。頽れて床に手をつく者、虚ろな目をして座り込む者たちに、出迎えた司書たちは各々駆け寄った。
 そんな中にあって、一人の男だけは辛うじて己の足で立っていた。彼の濃紺の上衣も空色の袴も無残に切り刻まれていたが、それでも男は立っていた。琥珀の瞳を、飢えた獣のようにぎらつかせて。
 そのせいだ。文豪たちの介抱に走った他の司書からなまえが遅れをとったのは、たまたま彼らから最も離れた位置に立っていたからではない。男の眼光に当てられて動けなかったのだ。なかじまさん。呆然とする彼女が無意識に口にした自身の名を聞くなり、男は一直線に声の元へと歩み出した。力任せに彼女の肩を掴み、何らの遠慮もなくその痩躯を壁に叩きつける。手負いの虎を止められる者は誰もなかった。背に痛みが走り、なまえはようやく我に返った。
「っ、中島さん、落ち着いて……! いま楽にしてあげ――!?」
 ひゅう、と息を呑む音。それきり彼女は呼吸の自由を失くした。グローブの指が、頸に食い込んだからだ。
「何故だ」
 ただ一言、男はそう問うた。それ以外に言葉はなかった。彼が何の理由を欲しているのか、喉を塞がれたなまえには尋ね返すこともできない。
 中島が心魂を深く侵され、平生の彼に戻ることなく潜書から帰ったことは以前にもあった。だが、尋常ではない精神状態の中で泣き出したり死を求めたりする者たちも少なくない中で、彼は力無い悪態や自嘲の言葉を口にすることはあっても、確かに己を保っていたはずだったのだ――もう一人の自分を気遣うくらいに。それがこの有様。前後不覚に陥るほどに抉られた精神。早く彼を楽にしてやりたい、酸素の回らない頭でなまえはそう思うけれども、彼自身がそれを阻むのだ。
 男の視線は目の前の女を射殺さんばかりに注がれている。彼の唇は憎々しげに歪んでいる。どうして。質す言葉は声にならない。なまえには彼の激昂の理由が分からない。
「……なかじ……さ、苦し……!」
 苦痛を訴えられてなお、男は指に力を込めた。やめろ、と誰かが言う。中島の耳にそれは届かない。なまえに彼の真意が窺い知れないように、中島自身もまた、己が彼女をどうしてやりたいのか確たる認識を持っていたわけではなかった。彼の優れた理知は、この時ばかりは影を潜めていた。胸の内にあるのは御しがたい衝動、ただそれだけだった。
「何故だ」
 言葉の自由を奪っているのは中島の方だ。だのに彼は、答えを急くように再び問う。なまえの両目は息苦しさにとうとう涙を浮かべたが、それでも男に容赦はなかった。
「……なに、が、」
 長い指がぎりぎりと頸を絞め上げる。
 ぐ、と嫌な音を立てて、女の喉が啼く。
「何故お前が俺を喚ばなかった……!」
 ――果たしてそれは、いったい誰の叫びだったのか。

「何事だ!?」
 悲鳴と怒声、ただならぬ物音に、数人の文士たちが部屋へと飛んでくる。
 先陣を切って扉を開けた吉川英治の視界がはじめに映したのは、壁に背をつけて座り込み、ぐったりした様子で荒い呼吸を繰り返す一人の女。それから、彼女に倒れかかる格好で気を失った傷だらけの男。
「……敦くん!? 苗字殿、これは一体……」
 ひとまず吉川は中島の身体を抱き起こした。後に続いた者たちも、他の負傷者の元へと走る。のし掛かっていた重さが退いて、なまえは深々と息を吐き出した。
 救援が駆けつけたのを契機に、室内を包んでいた異様な空気はようやく霧散した。彼らに導かれる形で、固まっていた司書たちも一気に時が動き出したように慌ただしく負傷者の搬送を始める。最後に残ったのは吉川となまえ、そして意識のない中島だ。二人の間に何かがあったということは吉川の目にも明らかだったが、彼は改めてそれを問うことはしなかった。
「……さて、我らも医務室へ向かうとしよう。早く救ってやらねばな」
 傷だらけの男を担ぎ上げながら、吉川はなまえを促す。乱れた呼吸も大分落ち着きを取り戻した頃だった。彼女はふらつくことなく立ち上がり――そうして首を横に振った。
 たとえ何があったにせよ、怪我人を放っておけるようななまえではない。吉川のその見立ては、決して外れたわけではないのだ。ただ。
「……悪いけど、そのひとわたしの部屋まで運んでくれる?」
 補修はどこででもやれるから。そう続いた声音はいつも通りのなまえのものだったはずなのに、吉川は短い承知の意を返すことしかできなかった。今度の彼は理由を問わなかったのではなく、問えなかったのだ。
 互いに噛み合わないままの歯車が二つ、ぎしぎしと音を立てて回り始めていた。

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