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見慣れぬ部屋の寝台の上で、中島は目を覚ました。
有碍書に送り込まれてからの記憶は、いつもの通りごっそりと抜け落ちている。自らの足で帰還した覚えもないから、今回は“彼”のまま帰ったのだろう。これまでにも何度か経験はあった。もう一人の自分が戦いで浅からぬ傷を負うとき、中島はその痛みすら知らされることなく眠りから覚めるのだ。ただ、そういうときには医務室に寝かされているというのが常だったはず。眼鏡のない視界でも、この部屋の天井の色が医務室の白いそれと違うことくらいは分かる。空気を漂うのも消毒液の匂いではない、不思議と落ち着くようなほのかに甘い香りだった。
ふと思いついて、中島は懐へ手をやった。すぐに硬質な感触が指に伝わって安堵する。眼鏡を探したのではない。もっと別の大切なものがそこにあるのを確かめたかったのだ。とは言え、自分がどこにいるのかも定かでない現状、やはり眼鏡は必要だった。いつもなら彼がそうしてくれているのか、サイドテーブルなりの手近なところに置かれているはずなのだが。起き上がるのはまだ少し億劫で、中島は仰向けの状態から顔だけを横に倒した。
目に入ったのは、机に向かう細い背中。――なまえだ。ぼやけた輪郭しか捉えられずとも確信する、その後ろ姿は間違いなくなまえだった。ここは彼女の部屋で、自分が寝かされているのは彼女の寝台なのだとようやく理解する。
どうしてなまえの部屋に、ということよりも、中島の頭に浮かんだのは彼女の顔が見たいという欲求だった。早くここへ来て、お帰りと言って欲しい。お疲れさまと笑いかけて欲しい。なんなら心配をかけてくれるなと叱責を受けたっていい。早く、そばに。なまえさん。呼んだつもりが、思うように声が出なかった。それほど長い間眠っていたのだろうか。彼女はすぐそこにいるというのに、わずかな距離がひどくもどかしい。
だが、中島の声なき声は彼女に届いたようだった。書き物をしていた手を止めたのか、かたん、とペンを置くような物音がひとつ。それから。
「気が付いたのね」
待ち望んだ声のはずだった。それは疑いようもなくなまえのものだった。なのにどうしてだろう。違和感と胸騒ぎとを、覚えずにはいられない。
「……わたし、ずっと考えてたの。どうしたら、あなたの願いを叶えてあげられるのかって」
彼女はこちらを振り向いてさえくれなかった。背中越しの静かな声は、故意に感情を殺しているようだと中島は思う。
唐突に語られた脈絡のない言葉。願いと言われて浮かぶのは、どれもなまえのことばかりだ。そうして未だ叶わずにいるもののひとつに思い至り、中島ははっとした。俄かに警鐘が、強く頭を鳴り響く。
「できることなら、わたしだって自分の手であなたを喚びたかったわよ。……でも、今さらどうにもならないじゃない」
手遅れだった。
罪のない彼女を、心の中で何度も責めた。けれどもその身勝手な非難は、確かに己の内に秘めていたはずだ。今さらどうにもならないなんて、そんなことは初めから明らかだった。そう言われてしまうことなど分かりきっていた。理不尽な願いをぶつけなかったからこそ、気付いていながら彼女はこれまで何も言わずにいてくれたのに。
「気にしないで、なんて言うだけじゃだめなのは分かってた。だから、あなたが本当にそんなこと気にならなくなれるようにって……考えてたつもり、だったんだけどな」
なのに、彼女はそれを受け取ってしまった。今や暗黙のうちにあった均衡は崩れ去り、守っていたはずの最後の砦は中島の知らないところで明け渡されてしまったのだ。無意識の自分が犯した過ちかもしれない、だが、そうでなかったとするならば。
「あなたを喚んだのがわたしじゃなくても、それでもわたしの特別はあなただけなんだって、いつかは分かってもらえると思ってた。思いたかったのに――」
椅子の足が絨毯を擦った。
立ち上がったなまえの細い背が翻る。レンズを通さない視界ではどのみち表情を捉えることなどできないけれど、こちらを振り向いた彼女は顔を俯けている。
「もう一人のあなたまで、あんなこと言うんだもの」
――ああ、やはり、彼が。
絶望にも似た虚脱感に、思わず天井を仰いだ。いつどこでどんな風に、彼が何を思ってなぜそうしたのか、全て分からないままに知らされないままに暴かれた心の声。
それでも中島には、もう一人の自分を責めるための時間も、彼の恣意に打ちひしがれるだけの暇さえも、それきり与えられることはなかった。気付けばなまえは寝台のすぐ傍らに立っていた。見える距離にまで近付いた表情を捉えるよりも先、不意に伸ばされた彼女の白い手が、中島の首元から上掛けを一気に引き剥がしたのだ。
「だったらもう、こうするしかないじゃない……!」
寝台が大きく揺れた。
鈍い衝撃が腰の辺りに落ちて、左右の手に両肩を押さえつけられる。身体の上で、なまえがこちらを見下ろしている――歪んだ唇を噛みながら。
ここへ来て初めてはっきり捉えることのできた表情は、痛みに耐えているようでもあった。二つの瞳が訴えてくる、怒りと嘆きとそのどちらでもない何か。突然の行動に呆気にとられるばかりの中島は、自棄になった彼女を宥める言葉を持たない。細身の女一人分の体重など大した枷にもならないはずが、金縛りに遭ったように身動き一つ取れずにいる。肩の手が鎖骨から胸を滑り、下腹部を猥りがましく撫で擦っても、ようやく働くようになった喉から情けない声を出すのがやっとだった。
「あ、あの、なまえさん……!?」
「目に見えるつながりなら信じられるでしょ? ……あげる」
口元に不自然な弧を描いて、なまえがわずかに腰を引かせる。袴の前紐に指をかけられて、中島はつい生唾を飲み込んだ。
いよいよ抗わなければ本当に事が起こってしまうやもしれない。それでもなお、未だ制止の言葉さえ口にできずにいるのは何故か。――期待? 浮かんだ一つの可能性に、まさかと内心でかぶりを振る。そのようなことがあってなるものか。なまえを自分だけのものにしたい、彼女だけの自分になりたい、それは中島が切望していたことに他ならないけれど、決してこんな形で叶えたかったのではない。こんな、彼女に犯されるような――犯させるような形などでは。
しゅるり。結びがほどける音と、腰元が緩む感覚。これ以上己の情けない姿を目の当たりにするのは堪え難かった。中島は瞼を下ろしかける。けれども、最後に捉えた光景が、閉ざす寸前の視界をもう一度開かせた。
紐を握る小さな手が震えている。
中島ははっとしてなまえの顔を見た。彼女の瞳は、いっぱいに涙を湛えていた。
「……違う……なんで、わたしこんなことがしたいんじゃ……」
ただ一粒。
こぼれ落ちた雫が、袴に滲みをつくる。
瞬間、身体から全ての強張りが解けた。そこにいたのはもう、中島のよく知るなまえでしかなかった。
今までの桎梏が嘘のように自由になった手を伸ばして、掴んだ彼女の腕を引く。平衡を失った痩躯は呆気なく中島の胸元へ倒れ込んだ。そのまま閉じ込めるように抱き竦め、肩口に頭を引き寄せる。なまえは身を硬くしていたが、やがて全身を震わせながら嗚咽を漏らし始めた。
泣かせる原因を作ったのは自分の方なのに、しゃくりあげる背中を只管にいとおしいと思ってしまう。中島は宥めるようにそこを撫で続けた。どれくらいの間そうしていたのかは分からないが、贖罪の気持ちというよりは単に触れていたいだけだったのかもしれない。
「なまえさん」
次第に呼吸が落ち着いてくると、背をあやしていた手で今度は彼女の髪へと触れた。しなやかな絹糸を指に絡ませながら、促すように再び手を動かす。そろそろ「いつものなまえ」の顔が見たかった。
「なまえさん。どうか顔を上げてくださいませんか」
軽く鼻をすする音の後に、嫌、とくぐもった声。
腕の中でもぞもぞと身じろいだ彼女は、中島の望みとは逆にしがみつくように身を寄せてくる。頑なな仕草に、中島の内にまたひとつ余裕が生まれる。
「……ひどい顔してるもの。人前で泣いたことなんてないのに」
「それなら尚更、誰も知らないあなたを見せていただきたいのです。……私だけに」
これまでの経緯がありながら、我ながら卑怯な言葉を選んだものだった。なまえも同じことを思ったようで、まだ不明瞭な声に目一杯の恨みがましさを滲ませている。
「……そういう言い方するのはずるいんじゃない?」
けれど、こう言えば彼女が拒めないことを分かっていたのだ。
悪趣味。一言の非難を最後に、なまえはそれ以上抗おうとはしなかった。彼女の背を支えながら身体を九十度反転させて、横向きに相対する格好になる。未だ眦に残っていた涙がこぼれ落ちたのを、中島は指先でそっと拭った。
「……中島さんって、意外とわがままよね」
いつものなまえは、ようやく笑ってくれた。
「……ごめんなさい。わたし、どうかしてたみたい」
嵐のような時間のあと。
決まりが悪そうに謝罪を口にするなまえに、中島は首を横に振って答える。
「謝らないでください。……あなたを追い詰めてしまったのは、私の方ですから」
告げた言葉は本心だった。彼女にあんな行動を取らせたのは他でもない自分の所為だったし、それは微塵も疑ってはいない。――ただ。
「ただ……ひとつだけ、教えていただきたいことがあるのです」
彼女は言った。もう一人のあなたまで、あんなこと言うんだもの。そして彼のその言葉が、なまえの引き金を引いたのだ。彼女に淀みを溜めこませたのは確かに自分だ。だが、それを横溢させたのは今ここにいる中島ではないのだ。
「……彼は、あなたに何と言ったのでしょう?」
少しだけ、なまえは困惑したようだった。察しはついているのだろう、とでも言いたげな様子で眉を下げる。それでも、彼の言葉を知りたいのだと伝えれば、なまえは中島の願いを受け入れてくれた。彼のことを良く知らないのが少し寂しい。いつか彼女の前で、そんな台詞を口にしたことがあった。
「……なぜお前が俺を喚ばなかったんだ、って」
覚悟はしていた。そうでなければいいと願いながらも、そうでないことなど有り得ない、とも思っていた。必然だったと言われれば頷かざるを得ない。彼もまた、中島敦であるのだから。
決して相見えることのできない、もう一人の自分が人知れず抱く想い。もしかすると知らない方が幸せだったのかもしれない。けれども今は、知ってしまった――彼もまた、この人に執着しているのだということを。
「彼女のもの」であることに中島がどれほど拘泥し、彼女に喚ばれることのなかったこの身をどれほど呪わしく思っているのか。いつだってこちら側からは決して見えない窓の向こうにいる彼は、それを誰よりよく知るはずだった。それでも、その彼は、“俺を”と言ったのだ。そうして彼女は。
「……なまえさんのおっしゃる通りですね」
繋がらない言葉。その真意を目で問うてくるなまえに答える前に、中島は彼女の髪に手を差し入れた。先程までの宥めるような動きとは違う、明確な意図を含ませた軌道で耳朶の淵を撫でる。彼女がびくりと身じろいだのにも構わず、不埒な指先で首筋を伝い、鎖骨を辿った。
「あなたのことになると、私は我慢が利かなくなってしまうみたいです」
――だから、このままあなたを確かめてもいいですか。私だけの、あなたを。
今はまだ、なまえが受け取ったのは彼の言葉だけ。そこに込められた想いにまでは気付いてはいない。そうしてそれを知ってしまったら、彼女はきっと彼に応えようとする――根拠など何ひとつないけれど、中島にはそんな気がしてならなかった。そうなる前に。
「……本当に、わがままね」
なまえは一度笑って、それから諦めたように目を伏せた。