Aa ↔ Aa
story for us
葬送の日は、ざあざあ降りのひどい雨だった。
参列を拒み、自室から一歩も外へ出ることのなかった男も、窓硝子を強く打ちつける耳障りな音だけは覚えている。
けれどもその雨が、音が、別れの日が、彼らの物語に綴られることはない。
男の握った万年筆は、ただひたすらに失われた時を辿るばかりだったのだから。
「……そろそろ新しい司書を迎えようと思っているんだ」
重苦しい声がそう切り出すまでには、幾許かの空白があった。
かつては主が不在がちであったはずのこの館長室も、このところはすっかり明かりの点いている時間が増えた。特務司書の夭逝から早二ヶ月。これまでは何かと理由をつけて、新たな司書の任命は先送りにされていたが、さすがにいつまでも空席のままというわけにもいかないのだろう。事実、言いづらそうにそれを口にしたここ帝國図書館の館長たる男は、上役から何度も催促を受けているようだった。四十九日も明けたのだから、と近頃は相当にしつこいらしく、躱し続けるのもいよいよ限界だとぼやいていたのはつい数日前のことだ。
「定年退職を迎えたばかりの、元高校教諭の男でな。性格は物静かで温厚。数年前からアルケミストとしての能力は見出されていて、当時も政府の連中が接触していたらしいんだが……その時には最後まで教師を続けたいからと固辞されたようだ。ただ、今回は快く受け入れてくれたよ。もちろん、こちらの事情を理解した上でだ。――どう思う?」
どうも何も、それは既に決定事項だろうに。形ばかりの問いを投げられた男――尾崎紅葉は、金色の長い髪を揺らして苦笑した。
「……まあ、妥当ではあろうな。あれと同じ年頃の娘でも連れてこられようものなら、やりづらくてかなわん」
尾崎は特務活動の黎明期からこの図書館に身を置く文豪の一人であり、司書が駆け出しの頃には何かと世話を焼いてやったものだった。だが、孫娘に対する老爺のような心持ちで見守ってきたその存在は、ある日突然誰の手も届かぬ場所へと旅立ってしまったのだ。買い物に行くと出ていったきり、司書は二度と図書館へ帰ってはこなかった。彼女には何らの非もない、不幸な交通事故だった。
わたしは絶対に、誰ひとり絶筆なんてさせませんからね。そう言っていた彼女が、その言葉を守り続けていた彼女自身が、真っ先に皆を置いていってしまうなど。一体誰が考えただろう。
「……俺だってそうさ。……それで、来週早々にでも着任させたい。いくら年嵩の教養人とはいえ、司書業務に関しては全くの素人だ。悪いが、しばらくは助手を頼まれてくれ」
「全く、老体をこき使いよるわ」
とは言いながらも、その任に不服はない。悼む時間は確かに必要だった。だが、それはもう充分に与えられたはずだし、悲嘆に暮れてばかりいてはあの娘に顔向けができぬというものだ。
尾崎もまた、そろそろ潮時であるとは思っていた。涙で錆び付いた歯車は、無理矢理にでも動かさねばならない時期に来ている。――たとえ、未だ失意の中から抜け出せずにいる者を置いていくことになったとしても。
「……ところで、彼は相変わらずか?」
まさか思考を読まれたのでもないだろうが、まるで図ったかのように発せられた言葉だった。
「……ああ。日がな一日部屋に籠っておるようだ」
突然の訃報の直後、それを受け止められずに塞ぎこんでしまった者は何人かいた。それでも時を経るにつれ、一人また一人と彼女のいない現実に向き合うようになっていって、最後にある男だけが残った。
その男は社交的な方ではなかったが、尾崎の弟子である泉鏡花には一目置いているようだったし、弟子の方もまた、困っている者があれば放ってはおけないという気質の持ち主であったので、泉には男の様子を気に掛けてもらっていた。彼の言うところによれば、初めはそれこそ生気を失った抜け殻のようになっていたが、近頃はむしろ何かに取り憑かれたようにして執筆に没頭しているらしい。
それが前に進むために必要なことであるのか、あるいは現実逃避に過ぎないのかは知るべくもない。いずれにせよ、こちらに出来るのはせいぜい身守ることくらいだった。
「なあ、彼と苗字くんは……」
館長の男は言葉を濁したが、何を言わんとしているのかは明白だった。尾崎は首を横に振る。否定したのではなく、そのような詮索は無意味だからだ。
「……彼奴にとっては特別だった。それ以上のことは、今となっては分からぬよ」
わざわざ当人に確かめる話でもあるまい。
それに、仮にそうしたところで、あの男から答えを引き出すことなどきっと出来はしないだろう。
***
寝台の上で、中島敦は静かに目を覚ました。
意識を失う前までは確かに机に向かっていたはずだったのが、消した記憶のないスタンドの明かりは落とされているし、被った覚えのない布団も首元まで掛けられている。今回もまた、いつの間にやらまともな格好で睡眠を取らされていたらしい。他でもない、もう一人の自分の手によって。
休んでいる暇などない、と初めのうちは苛立ちを覚えもしたが、能率を考えればそれが正しい選択であるのだと、今ではきちんと理解している。彼は決して己の邪魔をしようとしているわけではなく、それどころか手を貸してくれているのだ。いつか飲み込まれてしまうのではないかと恐れていたはずの影に、中島はこの上ないほどの頼もしささえ感じていた。
上体を起こし、一度大きく伸びをして寝起きの頭を覚醒させる。日の出まではまだ少し遠い時間だったが、眠気はさほど残ってはいなかった。
寝台を下りた中島は机に向かい、明かりを灯して積み上げられた原稿用紙の束を捲る。そこには、己の手で書いた覚えのない頁が新たに十数枚ほど重ねられていた。けれども覚えがないというだけで、見慣れた己の字で綴られた小説の続きは、中島が頭に思い描いていた物語と寸分も違わない。
「……本当に、こんな形であなたに協力していただけるとは思いませんでした」
“私”と“彼”。ここにいる中島敦と、もう一人の中島敦。決して相見えることのない二人が、相見えることのないまま紡ぎ続けているのは何のことはない、三文小説とも呼べぬような代物だった。不思議な能力を持つ娘と、彼女の手によって喚び出された青年。二人は互いに恋に落ち、やがて想いを通わせて、巡る季節を心穏やかに過ごしていく――本当にそれだけの話だった。乗り越えるべき試練も危機もそこにはなく、ただひたすらに微温湯のような日常が綴られているだけだった。
それでも、彼女が語った言葉のすべてを、彼女の表情のすべてを、彼女の仕草のすべてを余すことなく書き尽くしたとき、自分は再びあの幸せな日々へ帰ることができる。中島は、そう信じて疑わなかった。――なぜならば、これは彼女の物語であるからだ。
もう一度彼女に逢いたかった。
願うのは、ただそれだけだった。
――だから、中島敦は今日も筆を執る。