Aa ↔ Aa
年中無休の二十四時間営業、そんな店が街の至る所に建っているとは凄い時代になったものだ。転生を果たしたばかりの頃は軽く衝撃を受けたものだったが、今ではその恩恵を相当享受している。
何を為そうと為すまいと、生きているだけで腹は減る。それは人間紛いのこの身体も同じだった。司書を喪って以来、ほとんど部屋に籠りきりになった中島は館内の食堂を利用することもなくなり、皆が寝静まった夜中に外へ出て、数日分の食料を買い込むということを繰り返していた。その外出を担うのは専ら、窓の外からもう一人の自分を見ている側の中島――すなわち“俺”の方だった。
そんな生活をしていたので、図書館の人間との接触といえば、ある程度付き合いのあった連中が手紙を寄越してくる他にはお節介の泉鏡花が時々部屋を訪ねてくるくらいのものだった。それに関しては、もう一人の自分も然程負担には感じていないようだったので、中島も拒絶まではしていない。いずれにしろ直接顔を合わせるのは泉だけだったし、こうした外出の折に別の誰かと出くわすことが稀にあっても、相手の方から気まずそうに会釈される以上のことは何もなかったのだ。この日までのところは。
「どうも、今晩は」
お久しぶりです、とでも言うべきでしたでしょうかね。
買い物を終えて戻った中島を、その男――江戸川乱歩は部屋の前で待ち構えていた。
「執筆の調子は如何です?」
思わず舌打ちが出る。唯一対面で接触のあった泉が、中島の動静を館長なりあの人語を喋る猫なりに報告しているであろうことは想定していた。しかし、なぜそれがこの男の耳にまで入っているのか。
こんなことで怯む相手ではないと分かってはいたが、中島は殊更不快感を強調するようにして男の顔を睨みつけた。
「……失せろ。目障りだ」
そう吐き捨てて、廊下の中央に立ち塞がる派手な裏地のマントを躱し、自室のドアの前で鍵を取り出す。江戸川は実力行使による妨害にこそ出なかったものの、鬱陶しく背後について不愉快な問いを投げてきた。
「中島さん。アナタ、それを書き上げて一体どうなさるのです」
「お前には関係ない」
鍵穴を捉えるのにまず難儀した。がちゃがちゃと金属の擦れる音がやたらと煩わしい。だが、手元が狂う原因は単なる苛立ちであって動揺などではないのだ。この男が次にふざけたことを口にしたら、蹴りでも入れてやることに決める。
「彼女の物語であるのなら、確かにそこに彼女はいるでしょう。しかし、あくまで作者はアナタであって彼女ではない。彼女の魂そのものは、そこにはないのですよ。我々と同じように彼女を転生させることは不可能です、アナタもお分かりでしょう? それとも、アナタは本の中に逃げ続けるおつもりなのですか?」
蹴り損ねた。最後まで話を聞いてしまったことを中島は後悔した。
「……知るか。それを決めるのは奴だ」
確かに江戸川の指摘自体は的外れなものではない。中島自身もそれを懸念しなかったわけではないのだ。
けれども、もう一人の自分は絶対にそうはならない。中島には、その確信があった。
「……だが、あの女はそれを望まない。あいつの言うことになら、奴も従わざるを得ん」
二人の中島が日夜書き綴っているのは、ありのままの司書の姿に他ならない。ならば、たとえ物語の中の存在であろうと、彼女なら必ずもう一人の中島を奮い立たせようとするはずだ。
そうして彼女がなお戦うことを中島に願うのならば、己はこれまで通りに剣を振るい続けるだけだった。
「……話は終わりだ。奴をあの女に引き合わせさえすれば、それで全てに片が付く」
そこでようやく中島は開錠を遂げた。
江戸川は何かを言おうと口を開きかけたようだったが、これ以上相手をするつもりはなかった。扉を手荒に開いて室内へ逃れ、即座に再び鍵を掛ける。たったあれだけのやり取りで異様なほどの疲労感を覚えたが、今はまだ休むべき時ではない。食物を腹に詰め込んだら、また机へと向かうのだ。
もう一度、二人を会わせるために。
「会いたいのは、アナタも同じでしょうに……」
残された片眼鏡の男が、一人溜息を吐いていた。
*
「不肖わたくし、僭越ながらあっちの中島先生とお付き合いさせていただくことになりまして」
何ともふざけた言い回しだが、口にした当人は照れくさそうにしながらも一応は真面目なつもりのようだった。
その日、有碍書での戦いの合間。会派を共にした文豪の一人から、中島は司書より伝言を預かっていると告げられた。曰く、あなたに話があるので、時間があるときにでも自分の元へ来てくれないか、と。こちらの中島にだけ分かるよう敢えて潜書中を選んで伝えてきたのだ、恋仲になったばかりのあの男には聞かせられないような爆弾でも抱えているのではあるまいな――と身構えて来てみれば。とんだ拍子抜けだった。
「……そんなくだらない話をするために俺を呼びつけたのか」
「だって、こういうことはちゃんと話しておいた方がいいと思ったんですもん!」
それに一体何の利があるのか、中島には全く理解できない。もう一人の自分の身に起こった出来事を中島は全て見届けている、そのことは司書とて分かっているはずだというのに。
「今の先生にとっては、もしかしたら不本意かもしれません。でもわたし、あっちの中島せん……敦さんとのこと、認めてもらえるように頑張りますから!」
わざわざ言い直す惚気具合に呆れてしまう。大体、認めるも何もあったものではないのだ。この女はどうも中島をあの男の保護者か何かと勘違いしているようだが、こちらは二人がどうこうなろうが興味などないし、己を面倒事にさえ巻き込まないなら後は勝手にすればいい。――そう思っていたはずだったのだが。
「……俺から言うべきことはただ一つだ。決して奴を裏切ってくれるなよ」
口から出たのはそんな言葉だった。
――夢は、そこで唐突に終わった。
もう一人の自分でもあるまいに、いつの間にか机で眠っていたらしい。突っ伏した姿勢でしばらく意識を飛ばしていたためか、身体中がひどく凝り固まっている。首を回すと関節がぎこちなく音を立てた。
(なぜ今更あんな夢を……)
支離滅裂な非現実の世界とは違う、あれは紛れもなく記憶にあるとおりの光景だった。実際、あの後中島はすぐに司書に背を向けその場を立ち去っていて、彼女がどんな顔をして何を答えたのかは見ても聞いてもいないので、あの場面で夢が途切れたのも道理ではある。
だが、今はそんなことを思い返している暇はない。もう一人の中島が知り得ない出来事ならば、描く必要などないからだ。
物語の終着点は近い。
中島は、もう一度筆を握り直した。
数日後。男が悲願を遂げる時が、いよいよやって来た。
山折りにした原稿用紙の束に表紙を付けただけのそれはさながら卒業論文のようだったが、端から体裁などは問題ではない。新たな生を得て初めての長篇小説、初めての作品の名は、元より決まっていた。
“なまえ”、と。
(……これで、やっとあなたに会える)
高揚に震える指で表紙を開くと、たちまち溢れ出した光が中島を包み込む。これまでに何度も経験した、有魂書への潜書と同じ感覚だった。中島は目を閉じて、その時を待った。
「ただいま。新しい仲間を連れてきたよ」
初めに聞こえたのは隣から、穏やかそうな男の声。あの時もそうだった。彼女の声を聞いたのはその次だったけれど、目と目が合ったのは彼女が初めてだった。
何が何だか分からないままに喚ばれてたどり着いたその先で、笑って迎えてくれたひと。
中島はゆっくりと瞼を上げた。その微笑みに、もう一度出会うために。
「――ああ、お帰り。お疲れ様」
(……え?)
「えっと……初めまして。中島敦さん、でいいのかな」
(……なまえ、さん?)
「僕は徳田秋声。そっちの彼は、中野重治さん」
(……どうして、なまえさん、が)
「いきなりこんなところに連れて来られて驚いてると思うけど、詳しい事情はおいおい説明させてもらうよ。とりあえず今は――」
(……なまえさんが、いない)
全身の力が抜け、糸の切れた人形のように両膝から崩れ落ちる。それと同時に、中島は書の世界から脱していた。
しんと静まり返った私室で放心すること十数秒。我に返り、大きくかぶりを振って絶望感を払い除ける。きっと何かが足りなかったのだ。あれは見慣れた潜書のための部屋だった。あのとき自分を連れに来たのは中野だったし、当時司書の助手を務めていたのは徳田だった。彼女だけが、そこにいなかった。
「……まだ、です。こんなことで、諦められるはずがありません」
何も終わってはいない。始まってもいない。彼女が現れなかったのは、書き落としていることがあるからだ。描き足りないことがあるからだ。中島は、まっさらな原稿用紙を机上に広げた。
「……待っていてください。あなたのことは、私たちが必ず蘇らせてみせます」
たった一人の戦いならば、心は折れていたかもしれない。けれども今は、誰より心強い味方がいてくれるから。
書き加えては書に潜り、けれども彼女には会えず、戻ってはまた机に向かう。そんな日々が続いた。中島の思いとは裏腹に、来る日も来る日も彼女は現れなかった。
加筆を重ねた原稿は罫の間までびっしりと細かな文字で埋まっており、目を凝らさなければ何が書いてあるのか判別もつかないほどだ。それでもなお、彼女との再会は許されなかった。
部屋に籠って記憶を手繰り寄せ続けるのも、そろそろ限界なのかもしれない。決意を固めるまでには多少の時間を要したが、中島は彼女の使っていた私室に向かうことにした。そこは今でもそのままになっているはずだったし、かつて彼女から渡された合鍵も大切に保管してある。
その鍵が、手がかりになることを信じた。
覚えのある手応えと開錠音。それから一呼吸のあと、扉の取っ手に指を掛けたその時だった。
「そこにアナタの求めるものは何もありませんよ」
背筋に寒気が走る。反射的に振り向いた先に、片眼鏡の男が立っている。
「……乱歩さん……あなたは……いえ」
いつからそこにいたのかだとか、そもそも何故この場にいるのかだとか、そんなことより真っ先に質すべきことがあった。男は言ったのだ。そこに中島の求めるものは何もない、と。
「……どういうことでしょう。この部屋には、誰も手を出していないはずでは……?」
「エエ、確かにその通りですとも。ただ、ワタクシが申し上げたいのはそんなことではないのです」
――本の中でも彼女に会えないのでしょう?
俄かに激しい動悸が身体を襲った。頸を絞められるような息苦しさと、血の気が引いていく感覚がする。
なぜそれを。言葉にならない問いは、しかし言葉にするまでもなかったのだろう。
「さて、一体何故か。出過ぎた真似ではありますが、ワタクシからお答えいたしましょう。――それは、アナタの本には彼女の真実が書かれていないからです」
彼女の真実。誰よりそれを知っているのは、誰より彼女の傍にいた中島であるはずだ。その中島に対し、真実を書いていないと言い切ることの意味は一つしかない。
彼女と触れ合えぬのは、彼女の物語を正しく結ばなかったからであると。
男と女はいつまでも仲睦まじく幸せに暮らしました、めでたしめでたし。書の中での二人の結末は簡単に言ってしまえばこうだ。それが、中島が綴った唯一の偽りだった。彼女の姿をありのままに書き続けてきた中島が、ただ一つだけ願った嘘だった。
それでも中島にはそう書くしかなかった。そう書かねば意味がなかった。出会いなら何度繰り返したっていい、けれどもそこに別れはいらない。これは二人が幸せになるための物語だからだ。突如として未来を絶たれた女と、大切なひとを奪われた男が救われるための物語だからだ。――そうでなければ、自分は一体何の為に。
(逢いたいんです。もう一度、あなたに逢いたいだけなんです。私は、ただ――)
中島の意識は、そこから白く遠退いていく。
「黙れ道化が……貴様に俺たちの何が分かる……!?」
その日を境に、“私”たる中島敦が姿を現すことはなくなった。