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 生前は暢気な女だと言われていました。
 そんなおかしな自己紹介があるだろうか、と思われるかもしれないけれど、その一文に嘘偽りは少しも含まれてはいない。そしてわたしの楽天的な性質は、二度目の人生とでも呼ぶべきものを与えられた今になっても、あまり変わってはいないんだろう。そもそも身体が新しくなったというだけで、中身自体はずっと地続きでいるんだから、それも当然のことなのかもしれない。
 とは言え、いくら暢気なわたしでも、大切な人が自分のせいで苦しんでいるのを目の当たりにして、それなのに何もしてあげられないまま、毎日その姿をただ見ているだけだというあの時の状況は本当に耐え難いものだった。身体がだめになってしまったのになぜか魂だけが取り残されて、意識や感覚はあっても世界には一切の干渉ができない。誰かに認識してもらえることなんてもちろんなかったし、例えば夢枕に立つようなことだって一度もできなかった。大切な人を救えないのなら、どうしてわたしの魂は残されたのだろう。だったらいっそのこと消えてしまいたい、そんな風に思ったことさえあったのだ。

 わたしがいなくなってからしばらくの間、一日中何をするでもなく塞ぎ込んでいた敦さんは、ある日を境に起きている時間のほぼ全てを執筆に費やすようになった。そうして彼が何を書こうとしているのかを知ったとき、わたしは彼が希望を見つけてくれたんだと思って、少しだけ安心したものだった。でも、その時には彼も、それを手伝ってくれていたもう一人の方の彼も、まさかその本を依り代にわたしが転生できるだなんて考えてもみなかっただろう。もちろんわたしだってそうだ。敦さんは本の中のわたしに会おうとしてくれていたし、それを見届けられたら、彼が立ち直ってくれたら、そのときわたしも成仏できるものだと思っていたのだ。
 だから、本の中に招かれたあの瞬間は、本当に奇跡が起こったみたいだった。
 希望を失ってしまった彼が表に出て来なくなったとき、わたしは正直もうだめなんじゃないか、と思ってしまっていた。けれど、もう一人の彼はひとりきりで戦い続けてくれた。もう一人の彼自身が、わたしに会いたいとそう願ってくれたから。
 その想いに、本当は気が付いていた。
 腕の中でそれを伝えられるよりも前。一人になってもわたしのことを書き続けてくれた、その姿を目にするよりも前。わたしが一度この世を去った時よりも、ずっと前。
 奴を裏切ってくれるなよ。
 去り際にそう言い残していった横顔を見た、その瞬間から。
 そして、気付いたものはもうひとつだけあった。――それは、わたし自身が心の内に無自覚で抱えていた、もう一人の彼への想い。恋人とは違う、友人とも少し違うかもしれない、それでも大切な、不思議な立ち位置だったはずの存在。それがあのとき、胸を衝くような痛みを伴って形を変えたのだ。あの彼があんな顔をするなんて、わたしは本当に知らなかった。
 けれど、わたしはそれらを二つともなかったことにしようとした。そうすることが正しいのだと思い込もうとしていた。もう一人の彼の気持ちも自分の気持ちも、認めることが怖かったのだ。
 だって、それを認めてしまったら、わたしは二人の彼をどちらも裏切ってしまうことになる。自分が自分でなくなることに怯えていた恋人。口では厳しいことを言いながらもいつだって彼の身を案じていたもう一人の彼。そんな二人の願いをいっぺんに踏みにじってしまうことになると、あのときは本気でそう思っていた。
 今になって考えてみれば、そのせいでわたしの死後、あんなに長い間二人を苦しませることになってしまったんだろう。わたしが自分の心に正直になっていれば、二人の彼と真っ直ぐに向き合っていれば、わたしたちはきっともう少し早く再会できていたはずだ。
 それでも、こんなにどうしようもないわたしを好きだと言ってくれた、わたしに好きだと言わせてくれた、尊大で辛辣で本当は愛情深いひと。
 どちらのことも好きでいていいと言ってくれた、それが嬉しいのだと言ってくれた、穏やかで優しくて本当は少し欲張りなひと。
 二人の想いが、わたしをもう一度この世界に立たせてくれたのだ。

 あの日わたしは、確かに死という運命を受け取った。
 だからこそ、奇跡みたいにして与えられた人生の続きは、誰より大切な人を誰より幸せにするために使うと決めた。触れられる身体と伝えられる声がある、それがどんなに尊いことか、泣きたくなるほど分かっているから。
 一人は照れくさそうにはにかみながら、もう一人は呆れたようにため息を吐きながら、わたしの話を聴いてくれるだろう。
 だからわたしは、今日も伝える。
 あなたが好きです、と。


 ***


「事実は小説よりも奇なり、とはよく言ったものです」
 コーヒーカップを口に運びながら、片眼鏡の男はしみじみと呟いた。
「ワタクシ、それは無理だと彼にはっきり申し上げてしまいましたから」
「……俺だって未だに信じられないさ」
 頭を掻きながら、館長の男は言葉を返す。過去を生きた文豪の転生はこれまでずっと見届けてきたが、まさか不幸な事故で夭逝した部下、現代の一般人に過ぎない彼女のそれに立ち会うことになるとは夢にも思わなかった。
 文学への強い想いと、人々に親しまれてきた著作の存在。それがあっての転生だから、本来ならばこんなことはあり得ないはずだ。経緯は本人から聞いたが、これはもう愛の為せる業だとしか言い様がない。それを口にするのは少々憚られるような年になってしまったが。
「……だが、本当に良かったよ。今度こそ、彼女は幸せな物語を歩むべきなんだ。……後のことは、俺が頭を悩ませればいい」
 偽装、隠蔽、およそ公務員としては許されない手段を駆使してでも彼女の存在は守らねばならない。特に政府の人間に知られるようなことだけは絶対に避けたかった。しかしそれはそれとして、娘を失った両親にまで今の状況を黙っておくというのもまた気が咎める。その辺りも含めてこれからどう手を打っていくか、考えるべきことは山積していた。それは、嬉しい忙しさに他ならなかったけれど。
「ワタクシのトリックがお役に立つこともあるでしょう。まあ、幽霊の出る図書館なんて呼ばれるのも面白そうではありますがね」
「……勘弁してくれ。ところで、彼女はどうしてる?」
「さあ。でも、今日は彼の方も潜書の予定はありませんから……恋人との時間を楽しまれているのでは?」
 見守るような表情を浮かべながら、江戸川はコーヒーをもう一口啜った。分かりきったことを聞いてしまったかもしれない。だって、彼女はそのためにここへ帰って来たのだから。
「ああ、それは……何よりだ」
「エエ、とても」
 ――さて、今日の彼女は、どちらの彼と過ごしていることだろう。

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