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いつの日か、自分は自分でなくなってしまうのではないか。
自分ではない自分に、大切なものまで攫われてしまうのではないか。
ずっと離れることのなかったその恐怖を、跡形もなく消し去ることができたとは言わない。けれども今では、心の内から聞こえる声があった。お前は馬鹿か、そんなことがあるはずもないだろう、と。だからきっと、これからも“私”は“私”でいられるのだろう。
そのきっかけを、彼女が遺してくれたから。
アナタの本には彼女の真実が書かれていないからです。
ありのままの結末を綴らねば、なまえに会うことはできない。それを信じてしまったからこそ、自分は絶望の内に囚われることになった。元いた書の中に引き戻された魂は一人分にも満たない、中島敦の臆病な方の半分だ。時折傍らに感じることのあった“彼”の気配も完全に失われて、そこにあるのは文字通りの孤独だけだった。
現実から切り離された果てのない闇の中、彼女のことと、残されたであろう彼のことを考えた。自分が最後まで遂げられなかったのと同じく、彼にもそれを書くことは出来ないだろうと中島は思った。なぜなら、彼もまたなまえを愛していることを知ってしまったからだ。たとえば身体が返された直後、胸の辺りにぼんやりと残った温かいような苦しいような何かの余韻、残滓、そういうものから、彼もそうなのではないかと疑念を抱いたことはこれまでにもあった。それが確信となったのは、初めて彼の手稿を読んだときだ。
彼女に会いたくて、ひたすらに書いて、そのうちに眠ってしまって。目を覚ましたら、知らぬ間に書き足されていた話の続き。それは紛れもなく中島敦の文章だった。けれども、いかに自分が思い描いていたのと少しも違わぬ物語であっても、自分が一言一句それと同じ言葉を、同じ表現を繋いでいたとは思わない。むしろ、こんな書き様もあったのか、と思わされたほどだ。そこに込められた感情は、“彼”が“私”の想いを写し取ったものではなかった。他でもない彼自身が、彼女を想うからこそのものなのだ。愛していなければ、こんな風に書けるはずがない。
平時であれば耐えられるものではなかっただろう。この身は御しがたい悋気に襲われていただろう。だが、その時ばかりは違った。
――ならば、彼もさぞ苦しかろう。心を裂かれるような痛みを、彼もまた味わっていよう。この瞬間、彼は誰よりも己の友であり己の理解者だった。そう実感した。だから彼に頼り、その力を借りて、二人であれだけの物語を書き上げたのだ。
そうであるからこそ。物語の中のなまえに再び死を与えることが再会の条件であるというのなら、彼にもまたそれは遂げられないと思っていた。結果として自分は、なまえのいない世界を彼一人に押し付けてしまったのだろう。彼には悪いことをしてしまった。確かに彼は強かな人だ、会ったこともないのに中島はそのことをよく知っている。けれど、最愛の人を失った相手を前に、なおも同じことが言えるだろうか。たとえ仮初の再会を得ても、最後には悲痛な別れを何度だって突きつけられる、彼はそれに耐えられるほどなのか。――否だ。無理だろう。だって、彼の想いの深さは。
そうして中島は彼を待った。彼女のいない世界を捨ててここに帰って来るのを、彼女に喚ばれる前の魂に戻るのを待った。彼が諦めるのを待ったのだ。そうなれば自分は――二人の中島敦は、一人ぼっちではなくなるから。
「――あつし、さん」
だが、彼が来ることはなかった。
彼はついに諦めなかったのだ。
永遠に失われたはずの光が常闇を裂いた。震える声が、己の名を呼んだ。それは夢でも幻でもない。己が間違えるはずのない、彼女の魂そのもの、だった。
「……あれ、やだ、わたし、なんでこんな、泣い……」
もう一度会いたいと願い続けていた人の顔は、涙でめちゃくちゃになっていた。中島はそれを初めて見るはずなのに、そんな気がしないのはきっと彼が知っているからだ。もはや中島も気が付いていた。彼と二人で紡いだこの物語に足りなかったものに。それが、自分には決して書くことのできなかったものだったということに。けれどもう、それでもいい。それでもよかった。なまえは今、ここにいるのだ。
「わたし、ずっと見てて、あなたが苦しんでるの、なのに、なにもできなくて」
きつく抱きしめた痩躯が、しゃくり上げる声に合わせて小刻みに揺れる。生身の身体はもうなくなってしまったのに、感触も温度も香りも自分の知る彼女のものと何一つ変わらなかった。
「……触れたかった。声を届けたかった。敦さんに、笑ってほしかった……!」
なまえさん。その名を呼びたいのになかなか声が出てこない。いつものように彼が見ていたのなら、きっと呆れられていたことだろう。何せ自分も、頬を流れ伝うものを止められないのだ。それでもなんとか、中島は彼女の肩口にうずめていた顔を上げた。腕の力を僅かに緩めると、なまえもしがみついていた身体を僅かに離し、ゆっくりと顔を上向かせる。雨上がりの微笑みが、そこにはあった。
「……こんなに遅くなっちゃってごめんなさい。わたし、ただいま帰りました。あなたの元に」
あの日、出掛けて行ったきり、受け取れなかった言葉を彼女がようやく聞かせてくれる。
笑ってほしかった、と、彼女が言ったから。だから不格好でもそれを返そう。今ならもう、中島はそうすることができる。
「……はい。お帰りなさい。なまえさん……!」
一度は終わりかけた物語の続きが、この時ようやく始まろうとしていた。
***
「敦さんに、お話ししなくちゃいけないことがあるんです」
彼女と共にこの世界から抜け出せば、中島はこれまで通り、二人で一つの身体に戻ることになる。
彼の方は今、現実の世界で眠りながら、自分たちの帰りを待っているという。いつも己の一挙手一投足を見つめられていた中島が、彼に知られることなく話ができるのはこれがおそらく最初で最後の機会だった。それを分かっていて、彼女は改まったように話を切り出したのだろう。
「……実は、わたしがここに来られたのは」
「彼が物語を完成させてくれたから――ですね」
なまえは驚いたように両目を瞬かせる。そして、どこが決まりが悪そうに視線を動かした。
あの手書きの本は、二人の中島敦が愛した一人のひとの全てだ。それが彼女の魂を再びこの世と結びつけた今、なまえは彼の想いをも余すところなく思い知らされたことだろう。そして中島には分かっていた。彼女が、それを受け入れたことが。
「……あなたに言えないことなんて、他には一つだってなかったんです。それは、あの本を読んでくれたらきっと――」
「大丈夫ですよ。ちゃんと分かっていますから」
こちらを見上げてくる瞳はまるで許しでも乞うているかのようで、自らの言葉が偽りでも強がりでもないことを伝えたくて中島は彼女の手を握る。なまえがそんな顔をする必要はない。罪悪感など覚えずともよいのだ。
「……わたし。二人を好きでいても、いい、ですか……?」
もちろんです、と頷いてみせる。
“中島敦”は、そういう風にして彼女の傍らに在ることを決めたのだから。
「あなたと彼のことを何とも思わない、と言ったら嘘になります。……でも、今の私は、それ以上に嬉しいと感じているんです」
なまえが彼を好いてくれたこと。
彼がなまえを好いてくれたこと。
誰よりも近くて遠い存在だったもう一人の自分が、今はこんなにも。
「分からなかった彼のことが、一つ分かりました。彼は本当に、あなたを大切に想っていたのだと」
そして、中島は心からそれを誇らしく思うのだった。
「……だからなまえさん。どうかこれからも、よろしくお願いしますね。――彼、ともども」
あまりに短すぎたその生涯は、一度は悲劇的に幕を下ろしたかもしれない。
それでも彼女は今も確かに生きている。たとえ血肉が墨と術から成ろうとも、その在り方が命の理から外れていようとも。彼女の魂は、何一つ変わることなくこの世界で続いている。
運命は大人しく受け取った。けれども二人で抗って、抗って、抗い続けて繋ぎとめた未来がここにはある。
だから、今度は手を離さずに、一歩ずつそれを歩んでいくのだ。
――彼女と、彼と、私とで。