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in your embrace

 小鳥のさえずる声がする。
 誘われるように瞼を開けば、カーテンを通して和らいだ陽の光が室内を優しく照らしていた。
 珍しく寝覚めのいい朝だった。いつもなら、耳元で鳴り響くけたたましい電子音に問答無用で叩き起こされていたところだが、今朝に限ってはそれを聞くこともなく自然と意識が覚醒したのだ。
 ああ、よく眠れた。
 そう自覚した瞬間に、なまえの爽やかな目覚めは一転した。
「……八時半!?」
 勢いよく身を起こしたなまえの視界が捉えた壁掛け時計は、まさに勤務開始時間を告げていた。何が自然と覚醒しただ。朝には滅法弱い自分が、アラームなしに起きられた例などなかったではないか。せめてあと十分でも早かったなら、五分そこらで身支度を整えて、宿舎棟から本館までを全力疾走すれば間に合う可能性もゼロではなかったかもしれない。だが遅すぎた、これでは始まる前から終わっている。なぜアラームは鳴らなかったのだろう。それに、毎朝なまえの起きるタイミングを見計らって淹れたてのコーヒーを持ってきてくれる、大層献身的な我が助手の来訪は――助手? ……いや待て、そういえば昨夜は。
 そのとき、すぐ傍らからくすりと笑う声がした。
「……なまえさん、今日はお休みですよ」
 振り向いた先、隣に横たわる当の助手――兼恋人の眼鏡のない双眸に視線が捕まる。そこでようやく、なまえは現状を把握するに至った。つまるところ今日は土曜日だった。潜書その他、特務司書としての業務は完全に休み。そして通常の司書業務、主に一般来館者の対応だが、土日祝日のそれは複数いる特務司書の間で輪番制になっていて、今回割り当てられているのは自分ではない。
 遅刻にならなかったことへの安堵と己の間抜け具合への落胆からため息をついて、なまえはもう一度寝台に身体を沈めた。
「……起こしちゃったでしょう。ごめんなさい、騒がしくして」
 いえ、と男は笑う。
「ワーカホリックというんでしたっけ。私の頃にはなかった言葉です」
「……むしろ社畜脳ってやつかしらね……」
 一応身分としては公務員であるので、社畜というのは不正確ではあるが中身は同じようなものだろう。その気があるのは十分自覚している。この男が隣にいてくれなければ、昨夜だって仕事の夢でも見ていたかもしれない。
「仕事熱心なのはいいことです。ただ、もう少しご自身を大切にしてくださいね。……心配になってしまいますから」
 気遣わしげにそう言われ、後ろめたさになまえはつい目を伏せた。昨日は彼の前で感情を爆発させてしまった。何がきっかけだったのかと聞かれてもはっきりと答えることはできないが、例えば次から次へと持ち込まれてくる有碍書の数々、それに比例して増える未済の報告書、融通の利かない上の連中、戦いに送り出すばかりで見ていることしかできない自分への歯痒さ、そういう諸々が積み重なった結果として堰が切れてしまったのだろうと思う。そうして愚痴やら不満やらをひとしきり喚き散らすのをこの恋人は嫌な顔一つせず聞いてくれて、あやすように抱きしめてくれてなんだか涙が出てきた。最後には寝台の上で心も身体も思い切り甘やかされて、なまえはそのまま眠りに落ちたのだ。だというのに、後朝にこんな目の覚まし方をするなんて我ながら本当に嘆かわしくて仕方がない。
「……ねえ、今日、どこか行きたいところとかある?」
 罪滅ぼしというわけではないが、ここ最近は二人で出掛けたりということもなかなかできていなかった。遠出とまではいかなくとも、たまには少しくらい外を出歩いてもいいかもしれない。
 けれども男は、少し考え込んでから、思いつきません、と言うのだった。
「……すみません。あなたがいてくださるなら、私はそれだけで……」
 ――このひとのこういうところ、本当にかなわない。なまえは内心でそう独り言ちた。男が照れたように笑うから、ついこちらも頬が緩んでしまう。とは言え思うところは自分も同じなのだ。彼が隣にいてくれさえすれば、近所の裏寂れた公園だって特別な場所に見えてしまうに違いない。それを言葉にするには、未だ気恥ずかしさの方が大いに勝ってしまうけれど。
「でも、今日はのんびりしていましょうか」
 その提案もきっと、あまり休息の取れていないなまえを気遣ってのことなのだろう。昨日のこともそうだが、自分は本当に彼に生かされていると実感する。
 わたしが彼を支えるのだ、と、初めはそう思って近付いた。自己の不確かさに苦悩し、見えない影を恐れる彼の助けになりたかった。彼の優しい心を守りたい、その想いには少しも変わりはないけれど、今ではすっかり立場が逆になってしまった気もする。
「お昼まで寝ていても、誰も咎めませんよ」
「あなたも?」
「もちろんです」
「……じゃあ、もう少しだけ」
 なまえは男に身体を寄せた。触れ合う肌の温もりが心地いい。恋仲になったばかりの頃、手を握るだけでもいちいち心臓を飛び跳ねさせていたことを考えればずいぶんと大胆になったものだ。
 しかし、慣れてきた、ということは、自らの欲望もはっきりそれとして認識できるようになったということでもある。昨夜の何を思い出したわけでもないのだが、男の顔を見ているともっと触れたいという気持ちが頭をもたげてくるのだ。有り体に言えばなまえはキスがしたくなったのだった。
「どうかしましたか?」
「……ううん、何も?」
 熱心に見つめすぎただろうか。まるで図ったかのようなタイミングだったが、いくら昔に比べて大胆になったとはいえさすがにそれをねだるのにはなお抵抗があった。まして自分から仕掛けるような真似などとてもできる気がしない。けれどそうかと言って、芽生えた欲求をなかったことにするには少々膨らみすぎている。どうしたものか。なまえがひとり思案していると、傍らの男はまたくすりと笑みをこぼした。
「……なに?」
「いえ。相変わらず、嘘のつけない人だと思いまして」
 男の人差し指が、唇にそっと押し当てられる。
 どうやら何もかもお見通しらしい。なまえは赤面して目を逸らした。
「……中島さんは、ときどき意地悪よね」
「そうかもしれません」
 開き直られてしまえばもうどうしようもなかった。初めから分かっていたくせに、男はなまえがそれを言い出すのを待っているのだ。にこにこと人の良さそうな笑みを浮かべているが、こうなったらこちらが白旗を掲げるまで引いてくれないことはよく知っている。
「なまえさん。私にできることなら、何だって叶えて差し上げたいと思うんです」
 ――だから、あなたのお望みを聞かせてくださいますか?
 彼らしい殊勝な言葉も、今ばかりは甘い教唆に他ならない。間もなく観念したなまえの蚊の鳴くような声を、もちろん男は聞き逃さなかった。

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