Aa ↔ Aa
in your embrace (Another ver.)
執務室と一続きになった応接間のソファの上で、なまえは男の腕の中に閉じ込められたまま固まっていた。
何がどうなってこうなったのだろう。彼は一体どんな気紛れを起こしたというのか。もしかすると昨日の潜書後の補修に手落ちがあって、彼の受けた侵蝕が完全に浄化されていなかったのかもしれない、そんなことすら考えてしまう。それくらい、今の状況はなまえにとって俄かには信じ難いものだった。
頼まれていた資料の整理が終わった、と中島から報告を受けたので、こちらも一段落ついたら茶でも淹れるから一足早く休憩にしていてくれと告げたのが先ほどのこと。その時までは、彼は確かに穏やかな方の彼だった。それからしばらく経って自分の仕事にもある程度の区切りがつき、茶の準備をしようと立ち上がったところで、助手用の机で本を読んでいた中島も席を立った。この時にはもう眼鏡は外されていたかもしれない。そうしてこちらに近付いてきたかと思えば、突然その手に腕を掴まれ、そのまま引きずられるような形で半ば強引に応接のソファまで連行されて今に至る。
抵抗する間もなく引き寄せられた身体は、男の胸に額を預けてもたれかかるような格好になっていた。片手には背中を抱かれ、もう一方の手には髪を撫でられている。まるで恋人にするような所作ではないか、と思いかけたが、まるでも何もこの男とだって一応はそういう関係にあるはずなのだ。それでも、そんな風に思ってしまう程度には平生の態度が態度なので、やはり戸惑いを覚えずにはいられないのだった。
「……あの、中島さん?」
「何だ」
事も無げな調子で男はそう返してくる。むしろ「何か文句があるのか」とでも続きそうな雰囲気だった。今までこんな行動に出た例がないことは、彼自身が最もよく分かっているはずなのに。
「何だじゃなくてね、その……」
しかしなまえはなまえで、どういうつもりかと質す言葉はなかなか口に出せなかった。というのも、彼の機嫌を損ねでもして、この稀有な状況があっさり終わってしまうのは本意ではないのだ。彼の真意は知りたいが、咎めたいわけでは全くない。それどころか現状は、彼の腹の内が分からないことを除けば大いに心地がよかった。
触れられたことがないわけではないが、こちらの彼との場合は大抵最後にはひどい目に遭う。それが今回ばかりは違った。不埒な気配の欠片も感じさせない、どこまでも慈しむような触れ方。ただ、そうしてやわらかく撫でられる感覚と体温の中にいると、抗い難い別の欲求が急激に込み上げてくる。具体的には瞼を下ろして意識を夢の中に放り投げてしまいたいというものだ。けれどもそれはできない。机の上には未だ書類が山積みになっている。ただの繁忙期と言ってしまえばそれまでだが、昨夜もほとんど睡眠を取れていなかった。これまで紅茶やコーヒーで何とか身体を誤魔化し続けていたなまえだったが、ここへ来て強烈な眠気が襲いかかってくる。
つい漏れ出そうになった欠伸を噛み殺したその時、後頭部の髪が掴まれぐいと後ろに引かれた。顔を上向かされ、目尻に溜まった睡眠不足の証左を見咎められてしまう。
ふん、と呆れたように男が鼻を鳴らした。
「こんな貧相な身体で徹宵とは、思い上がりもいいところだな」
――ばれていた。そして、うっかりそれを表情にまで出してしまった。馬鹿が、と口には出さずとも、男の目は明瞭にそう言っていた。
「……気付いていないとでも思ったか。奴も俺も見くびられたものだ」
男の手が顔に伸ばされて、その指先が下瞼をそっと辿る。化粧で隠す努力はしたつもりだが、あまり意味はなかったようだ――この距離では尚のこと。
「……貧相は言い過ぎなんじゃない?」
何ともばつが悪くて苦し紛れにそう言い返してみたが、男は何も答えず再びなまえの頭を胸元に引き寄せた。速くも遅くもない彼の心音が聴こえる。そこに妙な安心感を覚えて、眠気は更に加速する。
「お前が倒れでもしてみろ。奴がどれほど狼狽えるか……考えるだけで嫌気が差す」
と表向きには自身の平穏のためだと口にする彼だったけれど、それでも心配されているのが分かって、そのことが嬉しくてなまえは垂れ下げていた両の腕を男の背中に添えた。普段の自分では恥ずかしさが勝ってなかなかできない芸当でも、今はその体温をより近くに感じていたかった。このまま眠ってしまえば彼の意図通りなのだろう、北風と太陽ではないが、なるほど縛り上げて寝台に投げ込むよりも余程効果的だった。
「……仕方ないじゃない、最近すっごく忙しいんだから。白い侵蝕者だのなんだのって、立て続けに持って来られるんだし……」
「言い訳を聞く気はない。さっさと目と口を閉じろ」
やはり言葉は素っ気ないのに、髪を撫でる手つきはひたすらに優しい。いよいよもって瞼は重力に逆らえなくなってきた。――もういい、このまま甘えてしまおう。誘惑に屈することを選んだなまえだったが、たった一つだけ心残りがあった。それはもちろん、机上に残っている仕事のことなどではない。
「ああもう……もったいないなあ……」
「……勿体ない? 何の話だ」
「だって、あなたがこんなことしてくれるなんて滅多にないもの……。せっかくの時間なのに、寝ちゃったらもったいないでしょ……」
「……」
このときにはもう、なまえは自分が何を口にしているのかを認識できてはいなかった。胸に埋めた顔を上げることもなかったので、男が僅かに面食らっていたことなど知る由もない。それは、彼にとっては幸運だったのかもしれないけれど。
「でもだめ、もう無理……。一時間、経ったら……絶対……起こしてね……」
男の気紛れが唇に落ちたときには、なまえは既に夢の中だった。