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「司書さん……本当に申し訳ありません……」
ぐったりとした様子でベッドに横たわった青年が、心底済まなそうな声音で告げてくる。
傍らの床に膝をついて覗き込んだその顔は、彼が初めて見せるものだった。頬は赤らみ、目つきはとろんと虚ろで、薄く開いた唇からは時折苦しげな吐息がこぼれている。――熱と、アルコールとを含んだ。
「気にしないでください、中島先生。わたしももう少し気を配っていればよかったんです」
この日――五月五日は、中島敦の生誕の日だった。
帝國図書館では、そこに籍を置く文豪たちが誕生日を迎える度、恒例行事として祝いの宴が開かれる。もちろん今夜も例に漏れず、中島を主賓とするそれが催され、食堂のテーブルにはいつもより豪勢な食事に種々の酒、お決まりのホールケーキが所狭しと並べられたのだった。
館長による乾杯の発声と共に開宴し、それからしばらくの間はよかった。あまり目立つことを好まない中島は、主役という立場への照れもあるのか、初めはどこか居心地が悪そうにしていた。だが、皆から代わる代わる祝いの言葉と酒を注がれ、いい具合に気が解れていったのだろう。声を出して笑う姿が見られるようになったのは、そう時間も経たないうちのことだった。
中島はもともと下戸ではない。吉川ら同好の士と何人かで集まって、歴史談義に興じるときには酒を片手にということもあると聞く。ただ、他人の目を気にしすぎるきらいのある彼のことだ、酔い潰れて失態を演じるようなことは決して許さず、慎重な飲み方を心掛けていたのだろう。しかし今日ばかりは事情が違った。祝意を込めて酌に来てくれる同志たちを、彼が無下にできるはずもなかったのだ。
「……先生、本当はああいう席ってあんまりお得意じゃないですよね。もっと早くに助け出せなくて、ごめんなさい」
「いえ、今日は本当に楽しかったんです。……だからこそ、限界も弁えずに飲み過ぎてしまいました。面目ありません……」
もう毎度のことだから、最終的には会の趣旨を見失ってどんちゃん騒ぎになることも当然分かってはいた。だから、当初は面倒な手合いから絡まれ始める前に彼を離脱させるつもりだったし、あわよくばそのまま二人で静かに飲み直せたら……と密かに中島を恋い慕うなまえはそんなことを画策していたのだったが、現実はそうはいかなかった。何しろ連休真っ只中の今、優良な出入りの業者はきっちり休みを取っており、食事の面倒は全て自分たちで見なければならない。そんな中での大宴会。もちろん何人かの文士たちは気を利かせて手伝いを申し出てくれたが、それでも人手は足りず、給仕よろしく働いているうちに気付けば中島の顔色が悪くなっていたという次第だった。
そうして、やいのやいのと野次を飛ばしてくる酒乱連中を背で躱しつつ、彼に肩を貸してどうにかその部屋まで引きずってきたのが先ほどのこと。水は飲ませたつもりだが、明日もしばらくは頭痛に苦しむことになるかもしれない。なまえとしては、当初の計画が外れた上、開宴間もないうちに祝いの言葉を告げたきり中島とゆっくり話をすることもできなかったが、それでも彼が楽しかったと言ってくれたなら今日の目的は充分に果たせたと言っていい。私室にはまだ、渡しそびれた贈り物が出番を待っているけれど、それは彼が元気になってから改めて渡せばいいだろう。
「明日は何時まで寝てても大丈夫ですからね。今夜はゆっくり休んでください」
男の顔からそっと眼鏡を外し、折りたたんでサイドテーブルの上に置く。代わりに冷えたタオルを額に乗せてやった。こちらの彼のときにはあまりお目にかかることのない素顔に、なまえは思わず見入ってしまう。
「……司書さん?」
「やだ、すみません。まつげ長いなあって思って、つい」
「そうでしょうか。あなたほどでは……」
そのとき、ベッドに投げ出されていた男の片手が、なまえに向けてゆるゆると伸ばされた。頬に触れられたと思ったら、意外なほど強い力で引き寄せられる。アルコールの匂いを、強く感じられる距離にまで。
ほら、と中島は笑った。屈託のない、子供のような笑み。突然の彼らしからぬ行動に、酔っているだけだと分かっていても戸惑ってしまう。酒気にあてられたかのように、頭がくらりとした。彼の顔が、あまりにも近い。
「素敵な誕生日を過ごさせていただきましたが、最後にこんな贈り物まであるとは思いませんでした」
――あなたと二人きりの時間をいただけるなんて、夢のようです。
とろけるような声で、中島は目を細める。夢のようだ、と彼は言ったが、自分の方が夢を見ているのではないかと思った。甘ったるい酒の芳香に鼻をくすぐられて、つい生唾を飲み込んでしまう。幸か不幸か、そのぎこちない音でなまえは我に返った。
「っ、もう、何言ってるんですか先生! 酔っぱらいすぎですよ!」
紛れもなく中島は酔っている。そういうものとして聞いておかなければ、受け止める準備などとてもできてはいない。だが、なまえのそんな心中など知る由もない中島は、酔っ払いの戯言で片付けられたのが不服だったのか唐突に顔色を変えた。笑みを消した眼差しが突き刺さる。伸ばされたままの手を、彼は離してくれない。
「酔っていなければ言えないこともあります」
嫌にはっきりした声音と、真っ直ぐに注がれる視線。早鐘を打ち始める鼓動。澄んだ琥珀のガラス球に、自分の間抜けな顔が映るのを見た。
「せ、先生」
「司書さん。私は――」
中島が口を開いて、なまえは息を呑む。彼は一度瞬きをして、それからゆっくりと。ゆっくりと――瞼を落とした。
頬を掴んでいた男の手が、すとんとベッドに沈む。間もなく小さな寝息が聞こえ始めて、足腰の力を抜かれたなまえは大きく息を吐きながら床へと座り込んだ。
「……びっくりした……」
深呼吸を数度繰り返し、なんとか心臓を落ち着かせる。――たちが悪い。もう二度と中島に深酒をさせてはならないと、なまえはそう心に誓った。あんな姿、他の誰にも見せるわけにはいかない。この図書館に女は自分ひとりだけれど、男にだって見せたくはない。あれは絶対に、自分のだけの秘密にしておかなければ。
「お誕生日、おめでとうございます。……大好きです、中島先生」
爆弾を投げるだけ投げつけておいて、気持ちよさそうに眠る男の顔を改めて見やる。明日になれば、彼はきっと何もかも忘れてしまっているだろう。だから。
「……いつか、続きを聞かせてくださいね」
叶うことなら、酒の力は借りずに。