Aa ↔ Aa
扉を開けたのは、夜も遅くに男の部屋を訪ねて来た女の愚かしさに一言物申してやるためだ。
半ば眠りに落ちたもう一人の自分から、意識を取り上げた直後のことだった。主賓という慣れない立場での祝賀会がやがて単なる酒飲みの集まりと化しても、続きは各自の部屋でやってくれと食堂からの解散命令が出るまでその場に留まっていた“奴”の馬鹿馬鹿しい律儀さには呆れ返る。さすがに延長戦は回避して自室に戻りはしたものの、そんなことをしているから無駄に疲労を溜めて、寝支度もしないうちにうつらうつらと船を漕ぐことになるのだ。そのまま眠らせて自分に替わったはいいが、休息に入ろうとしていた身体は気怠さを訴えてくる。さっさと湯を浴びて寝てしまおう、そう決めて立ち上がったところで叩かれた部屋の扉。その音だけで分かってしまうノックの主。聞き分けることを覚えたのはもう一人の自分だが、全く女々しいことこの上ない。好いた女の戸の叩き方まで記憶するなどとは。
「……何の用だ」
半分ほど開いた扉の向こう側、思い切り睨みつけてやったつもりだったがあまり効果はなかったらしい。不届きな来訪者――この図書館の特務司書は、涼しい顔でどこ吹く風だ。
「ご挨拶ね。でもよかった、間に合って。今なら会えるんじゃないかって思ったの」
もしかして寝てた? だったらごめんなさい。本当はもっと早く来るつもりだったんだけど、食堂の片付けに手間取っちゃって。ほんとあの人たち、飲むのはいいけどもうちょっと行儀よくってできないのかしら――と聞いてもいないことをべらべらと、よく口の動く女だ。そこでようやく呆れた視線に気が付いたのか、司書は仕切り直しとでもいうようにわざとらしい咳払いを一つ。そうして微笑んで、こう言った。
「お誕生日おめでとう、中島敦さん」
この日、もう一人の自分が散々聞かされた言葉。それでも些か驚いてしまったのは、今の自分がそれを告げられるとは思っていなかったからだ。皆から盛大に祝われて、僅かに酔って部屋に帰って、気分良く居眠りをしたところで中島敦の誕生日は終わった。終わったはずだった。確かに日付の上ではあと十数分ばかり残ってはいるが、まさかこの女、わざわざそんなことを言うためだけにやって来たというのだろうか。なんだか説教をくれてやる気も失せてしまった。
言葉を返さない中島に、目の前の女は今度は手のひらほどの小箱を差し出してくる。プレゼント。受け取れと促すように殊更その単語を強調して言う司書は、先ほどから妙に得意気だ。
「これ、結構苦労して手に入れたんだから。大事にしてよね?」
「……何だか知らんが、頼んだ覚えはない。これ以上邪魔な物を置く場所などあるか」
今の中島にしてみれば無駄としか思えない人付き合いの成果か、部屋の机は今や文豪たちからの贈り物に占拠されていた。本や文具や菓子の詰め合わせはまあいい。だが、猫か狸かも分からないような不細工な縫いぐるみやら、「かわいいにゃんこ卓上カレンダー」やらを選んで寄越してきた連中は本当に頭が沸いているとしか思えない。
「……大体、お前も奴に何かやっていただろうが」
何か、と濁しはしたが、司書から贈られた物の中身を中島は当然知っている。もう一人の自分が真っ先に包みを開いた、南洋の島を描いた美しい風景画がそれだ。少しは部屋の雰囲気も変わるかもしれないから。そう言われて渡された絵画は物自体が嬉しかったのもあるが、それ以上に、いつだったか「部屋が殺風景で寂しい」と何気なくこぼしたのを司書が覚えていたことにあの男は歓喜したのだ。生前の中島敦がパラオに赴任していたのを知ってのことか、あるいは冬の間、寒さが応えるあまり南国に行きたいというようなことをぼやいたからか、どちらにしろ己のために司書が贈り物を選んでくれたという事実に“奴”は大層舞い上がった。ご丁寧にも壁掛け用の鋲まで添えられていたから、額縁に入ったその絵をあの男は嬉々として飾ったのだったが、当の贈り主にその様を見咎められるのもなんとなく癪で、中島は廊下に歩み出ながら部屋の扉を閉ざした。別に自分がそれを壁に括り付けたわけでもないのだが。
「彼は彼、あなたはあなたでしょ? ……それに、これはあなたに渡さなくちゃ意味がないんだもの。ほら!」
結局は、手元に押し付けられる形で強引に二つ目の贈り物を受け取らされてしまう。思わず溜め息が落ちたが、それでも突き返す気にはならなかった。
「……礼は言わんぞ」
「別にいいわよ、感謝されたくてやってるんじゃないんだし。……でも本当、日付が変わる前に会えてよかった」
今日を逃したら、次に伝えられるのは一年先になっちゃうものね。
大袈裟な奴だ、と中島は思う。そもそも一度は死んだはずの人間に、誕生日も何もあったものではないというのに。それを差し置いたとしても、祝われるのは“奴”一人で充分だ。もう一人の自分に向けられる声も言葉も、中島はいつだって窓の外から聞いている。だから、会えて良かったなんて嬉しそうな顔をするなら、そんなものはあの男にくれてやればよかったのだ。――そんな、まるで自分が彼女の特別だと思わせるような顔は。
「そういうことだから、今日はおめでとう。邪魔して悪かったわね。それじゃあまた明日、おやすみなさい」
言いたいことだけ言って、押し付けるものだけ押し付けて、気が済んだらさっさと帰っていくとは存外身勝手な女だ。細い背中が柱の影に消えるのを見届けてから、もう一度だけ溜め息を吐いて中島は室内へと戻った。
机上に積まれた品々を脇に寄せ、椅子に腰掛けたその真正面に置いた小箱を前に、少しだけ逡巡する。あなたに渡さなくちゃ意味がない。司書の言葉の真意を知りたくもあれば、もしかすると知らぬ方が良いのではとも思った。けれどもやはり、この箱は自分が開ける他ないのだ。この箱だけは、“奴”より先に自分が。
「これは……」
底に敷かれた柔らかそうな布の上で、金細工の台座に嵌め込まれた赤紫色の宝玉が静かに輝いている。指先で触れてみると、温かいような冷たいような何とも不思議な感覚がした。
思い至るのは、かつて耳にした館長の男と司書との会話。あらゆる危難から身を守ることができるという霊石の存在。非常に貴重な物質で滅多に手に入ることのないものだが、それを潜書する文豪に持たせることができれば、と。
「……確かに、戦えない男には宝の持ち腐れだろうな」
中島は安堵した。何かが足りないような思いは、気のせいだということにした。少なくとも、あの女が“中島敦”の身を案じているということはよく分かったのだ。嬉しくもない、と言ってしまえば、それはきっと偽りになろう。
ふと目をやった時計の針は、既に午前零時を告げている。思えば慌ただしい一日だったが、それでも悪くはなかった。本当に、悪くはなかったのだ。
今は、それだけで充分だった。