Aa ↔ Aa
重なり合った身体を解いて、乱れたシーツの上へ仰向けに寝転がる。行為の余韻で惚けた頭に、心地好い倦怠感と眠気が途端に襲いかかってきた。だが、このまま眠ってしまうにはまだ惜しい。額に滲んだ汗を長い前髪ごと上方に拭い、瞼を下ろしてしまいたい欲求を抑えながら、中島敦はそろそろと顔だけを横向けた。
傍らの恋人は、瞳を閉じて大きく胸を上下させている。小さなスタンドの灯りだけが照らす横顔に、こめかみの辺りから汗の滴が伝うのが眼鏡のない視界にも見えた。思えば今夜の彼女はいつにも増して情熱的だったかもしれない。やがて荒い呼吸が落ち着いてくると、なまえは目を開けるなりこちらに身体を擦り寄せてきた。猫のようだ、と中島は思った。
「あ」
その猫のような恋人は、中島の向こう側に何かを見つけたように小さく声を漏らした。だが、すぐにこちらへ視線を戻すと、どこか得意げな様子でにっこりと微笑んだ。
「お誕生日おめでとうございます、中島先生」
その言葉に、彼女は時計の針を見たのか、と合点がいく。確か寝台に雪崩れ込んだのは、五月四日の二十三時を少し過ぎた頃だった。溺れている間に日付が変わったのだろう。転生、などという我が身に起こったことでもなければ到底信じられないような奇跡を経てここに存在している中島には、生前の誕生日を祝われるというのもどこか不思議なものではあったが、彼女の想いは純粋に嬉しかった。
「ありがとうございます。プレゼントはなまえさんだったんですね」
言えば、なまえは大きな双眸をぱちくりと瞬かせ、それから軽く吹き出した。
「やだ、そんなベタなやつじゃないですよ。プレゼントはちゃんと用意してあります。……それに、わたしはもう先生のものなんだし……」
恥ずかしくなったのだろうか、最後の一言は急激な尻窄みになって終わった。だが、中島自身としては、その言葉に照れくささを覚えるどころか至極満たされた思いになる。普段は特務司書として誰に対しても愛想よく振る舞うなまえが、今は一人の女として中島の傍らにあり、その心も身体も中島のものであると自ら口にするのだ。自分でも時折持て余すほどの独占欲を抱えていることは自覚している。だからこそ、か細い声で告げられたその言葉は中島にとって甘露に他ならなかった。
「ただ、一番最初にお祝いしたかっただけです」
――先生の大切な日、だから。
そう言って、なまえは中島の肩に額を押し付けるようにしがみついてくる。一見すれば単に甘えているだけのようにも思えるが、本当はそれだけでないことを中島は分かっていた。彼女は少し、寂しくなったのだ。
生前の誕生日を祝われるのは妙だ、というのは自分の感覚だが、なまえとて家族や友人知人のそれを祝うのとは勝手が違うだろう。何せ中島敦は人間ではない。これはたとえば悪辣な人格を喩えているとかではなく、専ら生物学的な意味である。
転生ということばが純粋な生まれ変わりを指すのなら、この図書館に集った自分たち文豪と呼ばれる存在の成り立ちは異質だ。確かに過去の記憶を引き継いではいるが、身体は母の胎から生まれたものではない。自らも知らぬうちに書物に宿っていた魂が、超常的な術式によって新たな器を得たもの――それが転生者の正体だ。加えてこの肉体は年を取らない。動けば疲労は溜まるし転べば怪我もするが、それでも加齢の概念はない。中島たちは、そういう風にできている。
元より同じ時代を生きた同士もでなければ、なまえと中島は同じ速さでこれからの時を歩むことすらできない。本来ならば一つずつ年を重ねていくはずの日が、今の中島には記念以外に何らの意味を持たない。おそらくなまえはそれを意識してしまったのだろう。平穏な日常の中では忘れられていても、いざ初めてこの日を迎えてみて、二人の間にある決定的な差異に思い至ってしまったとしても無理からぬことだ。
けれど、それは、彼女にも自分にも初めから分かっていたことだった。共に文学を守る仲間という関係から一歩を踏み越えるまでには当然、互いに並々ならぬ葛藤もあった。――それでも結局のところ、愛してしまったものはもうどうしようもなかったのだ。触れられる場所にいながらそうせずにいることなどできなかった。そして、そのどうしようもなさこそが、この人間紛いの存在を限りなくそこに近付けているのだと今では信じられる。この心までが偽物だとは思わない。だから、彼女の憂いを消してやりたいと思うのだ。
「なまえさん。私がここへ来た日を覚えていますか?」
髪を梳いてやりながらそう問うと、なまえは肩に埋めていた顔を上向けた。
「もちろん」
続けて一切の淀みなくその日付を言ってみせる。そればかりか、中島自身は全く覚えていなかった曜日までもが添えられていて、彼女らしさについ笑いがこぼれてしまった。
「私にとって、その日は第二の誕生日のようなものなのです。今日と同じようにあなたと過ごせるのなら、それ以上の幸せはありません」
慰めのつもりはない。これは他ならぬ本心だった。
なまえは一度大きく目を瞠ると、「あ」とか「う」とか言いながらどこか気恥ずかしそうに視線を泳がせた。そんな仕草のひとつを取っても、ただ只管にいとおしいと思ってしまう。我ながらあまりに惚気たものだが、こんな体たらくを知るのは“彼”だけだから構わない。
「……先生はすごいなあ。わたしが何を考えてたのか分かってたみたい」
「それはきっと、あなたがいつも素直でいてくださるからですね」
「……うん? それって、わたしが分かりやすい、って意味ですか?」
「おかげで助かっていますよ」
「もう!」
と唇を尖らせてみせたのも一瞬で、なまえはその顔をすっかり綻ばせていた。寂寥の影は、もうどこにもない。そうして次に浮かんだのは、少し悪戯めいた笑みだった。
「……ね、今は眼鏡もないし、そうしてるとなんだか不思議な感じですね」
「……?」
分かりやすいとは言ったばかりだが、此度に限っては意図するところが読めない。それを目で問うと、なまえはこちらへ手を伸ばし、その指先で中島の額に触れた。
「髪型。あっちの先生がいつもそんな感じなんですけど、でも表情は全然違うから」
汗が鬱陶しくて後ろに除けた前髪の話をしているのは分かったが、そんなことを言われても、中島はもう一人の自分のそれを直接目にしたこともなければ、そもそも見ようと思ったところで叶うものでもない。なまえの存在を通して少しずつ互いを理解できるようになった今となっては、彼に対して疑心めいた何を思うこともないのだが、単純に閨で自分以外の男の話を持ち出されたのが面白くなかったので、
「……私とこうしているのに、ベッドで他の男性の話をするんですか?」
拗ねた風を装って言う。なまえは再び吹き出した。
「他の男性、って。……先生のやきもち焼き」
それについては否定もできないので黙っておくことにする。重ねて彼が呆れているかもしれないが、やはりそんなことには構っていられない。
やきもち焼きなので、他の男のことはさっさとその頭から追い出してしまいたくて、中島はしなやかな肢体を腕の中に閉じ込めた。彼女の細い腕は、すぐに想いを返してくれる。
「……大好きです、中島先生。これからも、ずっと一緒にいてくださいね」
叶わないかもしれない約束を虚しいとは思わない。心の中に、彼女と同じ願いがあるからだ。
だから、今はこの時間を慈しみたい。彼女と共にある限り、人ならざるこの生は、決して生きる真似事などではなくて。
「もちろんです。私も、誰よりあなたのことを――」
愛している、と伝えることのできる、生きていることそのものだと思うから。