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「時に敦くん。君に聞きたいことがあるのだ」
侵蝕者の討伐を恙無く終え、会派一同が帰還の準備に入った折、吉川英治は共に戦っていた一人の男にそう声を掛けた。
会派筆頭を任された今回の潜書、無事その責を全うして有碍書の浄化を遂げたところだが、吉川にはもう一つ、この潜書中に果たすべき任務があったのだ。それは特務司書たるなまえから内々に頼まれたごく個人的な用件で、内容はこの男――中島敦からとあることを聞き出してほしいというものだった。そこに「有碍書の中で」という条件が付された理由については深く聞いてはいない。もちろん戦いが最優先だから無理はしないでくれ、あくまで支障のないタイミングがあればでいい、となまえは言っていたが、まさに今がその好機だろう。吉川は咳払いをして言葉を続けた。
「最近、何か興味を惹かれているものだとか、あるいは必要としているものはないだろうか」
――彼の誕生日が近いので贈り物を考えている。ついては、それと知られぬように彼の欲しいものを探ってもらいたい。
どこか気恥ずかしそうに切り出されたその頼みを、決して安請け合いしたつもりはない。そういう事情なら、是非ともなまえの力になってやりたいと思った。
しかしながら、実のところこれはものすごく困難な任務だったのではないか。思い切り不審なものを見るような目を向けられて、吉川の直感はそう告げた。
「……一体何だ。藪から棒に」
確かに自分でも唐突すぎたとは思った。もっと巧い聞き出し方はあったのかもしれないが、正直に言ってまどろっこしいことはあまり得意ではないのだ。だが、日頃世話になっているなまえの意は汲んでやりたいし、それは中島の為になることでもある。胸を叩いて任されよと言ったのは己なのだ、手ぶらで帰るわけにはいくまい。
「うむ、その、特に深い理由はないのだが」
「知ってどうする」
「どう……いや、何となく気になってだな!」
「……」
「ちなみに我は、赤壁の戦いを題材にしたレッドクリフなる映画のでーぶいでーが……」
「…………」
このように吉川英治は義理堅い男だったが、やはりその気質はとても内偵に向いているとは言えなかった。さらには相手も悪かった。中島の訝るような視線は、ついに吉川から外されてしまった。
「……そうだな。なくはないが、答えてやる気にはならん」
「後生だ、そこをなんとか……!」
「どうせ何処ぞの馬鹿女の差し金だろう」
「む……」
まさかそこまで看破されていたとは。秘密の依頼もこれでは形無しだと、面目無さに軽く項垂れる。しかし、こうなったら何か手がかりだけでも持ち帰りたい。ただでは教えてくれぬのなら交換条件だ、彼が乗ってくれそうなものは何だろう。
それを必死で探っていると、ふ、と息を漏らす微かな音が吉川の耳に届いた。俯きかけた顔を起こした先で、意外なことに中島が僅かに口角を上げている。ただし、それは普段の彼が見せる人の良さそうな笑みとは違う、まるで何かを企んでいるかのような表情だった。
男たるもの、たとえどのような戦いであれ、容易く諦めるようなことなどあってはならない。しかし、どう足掻いても覆し難い敗北の気配を、吉川はそこに見て取ってしまった。
「……あの女に伝えておけ。知りたくば、自分の足で聞きに来いとな」
百計ここに尽きたり。
そして果ての一計未だ見えぬうちに、中島は吉川を置いてさっさと帰路に就いてしまったのだった。
***
「……なんて言ってたくせに!」
目一杯の非難を込めて、視線と声とを投げつける。
中庭を吹き抜ける五月の夜風はまだ少しひんやりとしていたが、今は肌寒さも気にならない。そうさせているのは、ベンチの隣で悠然と足を組んでいるこの男への不満に他ならなかった。
自分の方が恐縮してしまうほど申し訳なさそうにした吉川から、事の次第について報告を受けたのは十日ほど前のこと。そしてその日から、“こちらの”中島は一度もなまえの前に姿を現さなかった。潜書で大怪我がなかったということに関しては当然喜ばしいのだが、決して長くないとはいえ普段彼が彼として過ごしているはずの時間にも、この約十日間は全く顔を合わせることがなかったのだ。仕事の隙を見て私室の前をうろついたり、彼の好む歴史書のコーナーに張り込んだりと半ばストーカー紛いの手段にも出てみたが、結局はそれも全く功を奏さなかった。
「絶対わたしのこと避けてたでしょう?」
「さあな」
自分で聞きに来い、と言っておきながら一向に姿を現さない男を見つけられないうちに、時はとうとうこの日、五月五日を迎えてしまった。祝いの宴も今から半刻ほど前に幕を閉じたところだ。いつもの穏やかな彼には無事に祝辞と品物を贈ることができたが、こちらの中島に関しては、正直なまえは諦めかけていた。だから、宴の片付けを終えた後は彼を探すこともなく自室に戻ったのだ。相手にその気がないのなら、自分の側からどうこうできる問題ではないからだ。
そうして一人消化不良の感を持て余していたところ、突然部屋の扉が叩かれて、十日ぶりに現れた当の待ち人から少し付き合えと中庭に連れ出されて今に至る。もしかすると、他人を使って情報を聞き出そうとしたことで彼の不興を買ってしまい、そのせいで会ってもらえずにいたのではないか――という懸念もなくはなかったので、今の彼の態度を見るに単にからかわれていただけなのだと分かって少し安心した。それはそれで面白くなくもあるのだが。
「……おかげで何がいいか分からなかったし、適当に選んだからね。はいこれ、お誕生日おめでとう!」
部屋を出るとき、咄嗟に贈り物を手に取った自分を褒めてやりたい。差し出したそれを男は無言で受け取ると、その場で包装を開き、そうして中身を認めるなり眉を顰めた。
「……何だこれは」
「『英傑伝・関羽』のDVD。好きでしょ? 三国志」
「……」
「……もしかして、レッドクリフ二巻セットの方が良かった? わたしもちょっと悩んだんだけどね、でもあれ、確か図書館のDVDコーナーに置いてあったような……」
とそこまで言ったところで男は興味なさげに手元から視線を外し、半分ほど開かれた包みは呆れたようなため息とともに彼の向こう側のベンチ上に置かれてしまった。突き返されなかっただけまだ良かったのかもしれないが、狙いは外れてしまったらしい。置物だとかの役に立たないものは好まなさそうだ、かと言って文具等の実用品にはこだわりがあろう、それならば彼の興味を引きそうなもので……とこれでも自分なりに色々と考えたというのに。
「何よ、仕方ないじゃない。欲しいものを教えてくれなかったのはそっちなんだから」
なまえは口を尖らせる。ただ、次に男から返ってきた言葉は意外なものだった。
「違う。事前に知らせることに意味がなかっただけだ」
「……どういうこと? たとえば今からでも用意できる……とか?」
ああ、と男は言う。そして、それを受け取りに来たのだとも。
「でも、それって一体――」
何なの、と見当もつかないその中身を尋ねることはできなかった。突然男の腕が肩に回され、ぐいと強く引き寄せられたからだ。そこまで近接した位置に座っていたわけでもないので、体勢を崩したなまえは男の方へ倒れ込むような格好になり、その胸に額を打ち付けてしまう。
「ちょっと、いきなり何す、っ――!?」
どういうつもりかと非難めいた気持ちで顏を上げた途端に言葉を失った。黄金色に光る男の双眸が、あまりにも近くにあった。
「な、中島さん……?」
そうして空気はおかしくなった。
今の今まで、何らの緊張感もないまま至極普通に会話をしていたのではなかったか。至近距離から突き刺さる眼力の鋭さになまえは気圧されそうになる。視線の強さだけがそこにあって、男は全くの無表情だった。感情を大っぴらにすることをあまり良しとしないあちらの彼と違って、快も不快も表すこと厭わないのがこちらの中島であるはずだ。けれども今は、まるで読めない。
「俺の望んでいるものを寄越したかったんだろう」
「そ、そう、だけど」
「お前だ。お前が欲しい」
「はあ!?」
聞き間違いにするにはあまりに明瞭な声だった。気でも触れたのか、それとも侵蝕による症状の一種か。ああ違う、きっと酔っているのだ。男からは、微かにアルコールの匂いがする。
「そうだ、さっき飲み過ぎたんでしょ? いま水を持ってくるから……」
その申し出を阻むように、なまえを抱き寄せているのと逆側の手に顎を掴まれた。なまえとて、ここまで来てさすがに男が何をしようとしているのか分からないわけではない。だからこそ信じられないのだ。酔っているにしろひどすぎる。だが、男は言葉をくれない。何もかも分からないままこんなことはいけないと思うのに、その思いとは裏腹になまえの身体は固まったように動かない。
「ね、やだ、嘘でしょ、待っ……」
鼻先が触れそうなくらいに距離を詰められた。情けない懇願を最後にいよいよなまえは耐えられなくなって、覚悟などできるはずもないままどうしようもなくて固く目を閉じる。そして。
――ばちん。
「ったぁ!?」
鈍い音とともに、額に強烈な痛みが走った。
反射的に瞼を開くと、目の前から男の片手が遠ざかっていくのが見えた。気付けば身体の拘束はいつの間にやら全て解かれている。男との距離も既にすっかり元通りだ。何が起こったのか瞬時には理解ができなかったなまえだが、額の疼痛が引いていくうちにようやく事態を飲み込めてくる。――今のはそう、あれだ、所謂デコピンとかいうやつだった。
「冗談だ。当然だがな」
かつて、これほど悪い顔を見たことがあっただろうか。たちまち身体中の血液が沸騰しながら頬へと上っていく。
「あ、あああああなたね……!」
自分が一体何をしたというのか。どうしてこんな目に遭わねばならないのだ。本当に、何という辱めだろう。
「今のはなかなかの余興だった。お前にしては傑作だ」
「うるさい悪趣味! 人をからかうのも大概にしてよ……!」
「何だ、まさか期待でもしていたのか?」
「そんなわけないでしょ!?」
なまえが声を上げるほどに男の愉快そうな笑みは深まっていき、果てには喉を鳴らして笑い出す始末だった。もう何を言っても逆効果にしかならないようで、出来るのはせいぜいが睨みつけることくらい。だが、やはりそんな視線も意に介さない風で、いいだけ笑って気が済んだらしい相手はまるで悪びれた様子もなくベンチを立った。待ってよ、と制止の声も聞かずに、男は宿舎棟の方へ向かって歩き出す。なまえが手渡したばかりの品を置き去りにして。
「……あっ、ちょっと、これ!」
「……ああ、それは必要ない。もう充分面白いものが見られたからな」
吉川への手間賃にでもすればいい、などとやはり欠片ほどの興味もなさげに言い残し、結局男はその場からいなくなってしまった。手酷くからかわれたばかりか、最後には贈り物を返戻されるという不名誉まで押し付けられるとは。そうして行き所を失った感情と贈り物だけが、なまえとともに残された。
(何よあれ、何よあれ、何なのよ……!)
一人きりの中庭に吹いた夜風も、怒りやら羞恥やらがごちゃ混ぜになったほとぼりを冷やしてはくれない。
あんな真似をして何が楽しいというのだろう。性格が悪いにも程がある。中島にその気はなかったようだが、なまえにしてみれば心臓が止まりかねないほどの一大事だったのだ。あのまま本当に唇を奪われてしまうかと思った。そんなことになったら、自分は一体どうなってしまうのかと恐ろしくすらなった。だって。
「絶対に仕返ししてやるんだから……!」
敢えて声にも出したのは、頭から男の言葉を振り払いたかったから。
――お前が欲しい。
戯れだと分かっている。わざわざ「当然」と付けてまで、男はそれを冗談だと言った。だから、できることなら認めたくはない。認めたくはない、けれど。
あの瞬間、心は確かに彼のものだった。