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once again, never again(1)

 濃紺の外套を翻して立つ、凛然とした背中に憧れた。
 黒馬を駆り先陣を切って戦うその姿には、どれだけ勇気づけられたことだろう。
 彼がいてくれるのだと思えば、どんな戦場だって怖くはなかった。隣に並ぶことなんかできなくたっていい、立ち止まってくれなくても振り返ってくれなくても、彼の後ろを走り続けることができるのならわたしはそれだけでよかったのだ。
 叶うことなら、その背をずっとずっと追いかけていたかった。
 彼についていけば、間違いないと思っていたから。
 彼を信じて、彼と同じものを目指して進んでいけばそれでいいのだと、わたしはそう思っていたから。

「……納得できません!」
 声を荒らげても、机を挟んだ向こう側の人は表情を動かさない。
 未だ混乱に収拾がつく気配のない王宮にあって、パーシバル将軍の落ち着きぶりといったら恐ろしいくらいだった。今もこの執務室を一歩出れば、廊下では兵士や官吏たちが右往左往しているという有様だったし、窓の外に目を向ければやはりそこでも無数の警備兵たちが忙しなく動き回っている。途中その何人かと肩をぶつけ合いながらこの部屋に駆け込んだわたしも、同じく慌ただしいうちの一人に数えられるだろう。
 宰相ロアーツと西方三島総督アルカルド、この二名を中心として組織された一派が国王陛下の御身を拘束し、政権の執行を宣言したのが一週間前。
 そしてその翌日には、新政権に恭順せよとの命がモルドレッド国王陛下の名のもとエトルリア全軍に対して下されていた。
 命令が出されてしまった以上、それに背けば反逆者として捕えられることになる。けれども処罰を恐れて従うのは一般兵の話であって、軍の上層部――とりわけ影響力の大きい『三軍将』に名を連ねる将軍のうち二人がクーデター派についた理由は、陛下を人質に取られているからに他ならなかった。
 三軍将たる者がどれほどの求心力を持つのかは、魔道軍将率いる反クーデター派勢力の大きさがそのまま証明している。下命があった後でさえ、反逆罪に問われることを顧みずに王都を脱してセシリア将軍の元へ集う有志は少なくなかった。
 だから、おそらくダグラス将軍とパーシバル将軍の両名が反クーデター派に加勢すれば、兵のほとんどはそれに追従するだろう。そうと分かっているからこそ、ロアーツたちは陛下を弑せずに軟禁しているのだ。

 わたしが副官としてお仕えするパーシバル将軍は、新政権の下で騎士軍将としての任を続けることになった。
 それは彼の立場や国王陛下のことを考えれば仕方のないことだったのだと思う。わたしの務めは傍らで彼を助けることなんだから、将軍がそう決めたのならと今日までそれに従ってきた。あのいけ好かない宰相のいいように使われることに腹は立ったけれど、将軍の心中を思えばわたしの不満なんてどうということはないはずだった。
 けれども、わたしは内心ではずっとセシリア将軍を――反クーデター派のことを案じていたのだ。
 セシリア将軍がベルンの王女を保護しているらしい、というのは以前から実しやかに囁かれていたことで、おそらくそれは事実だったんだろう。そういう意味では将軍がアクレイアを逃れたのも必然だったと言えるかもしれないけれど、たとえ王女を匿っていなかったとしても彼女ならば同じことをしていただろうと思う。軍人は国王の私兵ではない、民を守るためにあるものだと。国のため民のために戦うのが自分たちの務めなのだと、将軍はそういう考えの人だったから。
 この国が大好きで、ここに暮らす人々を守りたい。
 そう思って仕官したわたしにとって、セシリア将軍の考えはすごく共感できるものだった。
 だから本音を言ってしまえば、わたしは今の自分の立場には疑問を感じていたし、もっとはっきり言うならば、パーシバル将軍と一緒に反クーデター派に加わることができたならどんなにかいいだろうと思っていた。状況が変われば、あるいは本当にその願いが実現することもあるかもしれない。そんな浅はかな希望も、わたしは捨ててはいなかった。
 この日、それが打ち砕かれるまでは。

「なぜですか? どうしてあなたほどの方がこんな……!」
 思えばわたしがこの人に対して異を唱えたのはこれが初めてだった。
 それでもやはり将軍は顔色を変えないまま、同じ言葉を繰り返すのだ。
「……勅命だからだ。それ以外に理由などはない」
 もはや名ばかりのものになり果てたそれに、何の意味があるというのだろう。いつからそれは、私利私欲にまみれた愚物の命令を指す言葉になってしまったのだろう。
 彼とわたしとを隔てている机の上に目を落とせば、そこには王家の紋章が刻印された一枚の命令書が置かれている。これがまさに、今こうしてわたしが尊敬する将軍に食ってかかる理由そのものだった。
 "魔道軍将セシリアをエトルリア王国軍法に定める第一級反逆者として指名し、その捕縛ならびに叛乱軍の掃討における総指揮を騎士軍将パーシバルに命ずる。"
 勅令状の名がついたこの書には、こんなことが記されていた。
 そしてパーシバル将軍は、反乱軍討伐のためには彼の直下に新たな隊を組織する必要があると言い、それからそのための準備をしろとわたしに言ったのだった。
「……これが陛下のご意志だとでもお考えなんですか?」
 第一級反逆者の烙印を捺されるということは、軍人として最大の辱めを受けることと同義だった。
 戦いの中で名誉ある死を遂げることはもう許されない。その身は拘束され、軍法会議にかけられ、そして大罪人として公開処刑に付されるというこの上ない汚辱が待っている。
 この人にとっても、セシリア将軍は大切な戦友であるはずなのに。
「こんな命令に従う必要がどこにあるんですか。陛下は奸臣どもの傀儡にされてしまわれたんですよ……!?」
 これまでのところは、反クーデター派の追討にわたしたち騎士軍将隊が動員されることはなかった。
 けれどもこうしてパーシバル将軍にその総指揮を命じたということは、脅しではなく本気で彼らを潰しにかかれと言っているのだ。
「……ナマエ。いい加減に控えろ。口が過ぎる」
「ですが……!」
 なおも食い下がるわたしに将軍は瞼を伏せる。
 そのまましばらくの間、彼は沈黙を保ったままだった。まるで何時間にも思える数秒が過ぎた後、再び目を開いた彼は、感情のない声でわたしにこう告げた。
「どうあっても従えぬと言うのなら、仕方あるまい。……この場を去れ」
 ――わたしは一体、どんな言葉を期待していたというのだろう。
 ダグラス将軍はともかく、この方ならばいつか王都を離れることを決めてくれるかもしれない、だなんて。そんなものは馬鹿げた幻想だったのだ。
「……将軍、」
 けれども、だ。
 去れという言葉はつまり、わたしがここで離反を宣言しても将軍にはわたしを謀反人として捕える気はないということを意味している。
 それは彼なりに、わたしに最後の情けをかけてくれているのかもしれなかった。
「……わたしはこの国が、エトルリアが好きです。この国を守りたいと思って、だから軍人を志しました。あんな……欲に目の眩んだ、王家に弓引くような者どもの手足となって働くためではありません」
 筆頭副官が脱走したとなれば、嫌味の一つや二つでは済まされないかもしれない。けれどこの位階を望む人間なんて数え切れないほどいるだろうし、騎士軍将隊にはそれこそわたしよりもずっと優秀な人材が揃っているのだ。だから将軍がわたしの後任に困るようなことはないだろう。
「……今までは陛下の御身のため、パーシバル将軍のためと思ってきました。でも、もうこれ以上は大義のない命に従うことはできません」
 それに、仮にこのままここに残っていたとしても、次の任務があんなものではわたしは何の役にも立たなかっただろうから。
「……わたしは、セシリア将軍の元へ行かせていただきます」
 だから、これでいい。
 これでいいのだ。
 わたしにはもう、こうする他はないのだから。

「……そうか。ならば、もはや私から語るべきことはない」
 終わりはあまりにも呆気なかった。
 それでも現実はこんなものなのかもしれない、とも思う。
 命令に従うことのできない部下なんて、彼にとってはもう必要ないも同然なのだ。
 ――どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 王子殿下がご健在だったあの頃が、ひどく昔のことのように思えた。殿下のために槍を振るう将軍の鋭い瞳には一点の曇りもなくて、わたしはそんな彼に憧れて、そんな彼をずっと見ていたくて、必死でその後ろを追いかけて。いつも目の前にあった凛々しい姿はこの心にずっと焼きついているのに、今わたしに向けられたその背には、もう手を伸ばすこともかなわない。
 本当に、どうして。
 この人が、パーシバル将軍が変わってしまったわけなんかじゃないのに。
「……さようなら……パーシバルさま……」
 呟いた別れの言葉は消え入りそうなほどに小さく、ドアを閉める音に飲み込まれてしまったかもしれない。
 数日もすれば、反乱軍追討の命を果たすために騎士軍将隊は動き出すことになる。彼らに追いつかれるまでにわたしが生きていられたとしたら、次に将軍と会うのは戦場で、ということになるだろう。
 けれど感傷に浸っている暇はない。
 今わたしが考えなければならないのは、いかにして衛兵に捕まらずにここを脱出するのか、ということなのだから。

 ――閉ざされた扉の向こうで将軍が苦悶に満ちた溜め息を吐いていたことなんて、この時のわたしには知る由もなかったのだった。

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