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あれからわたしはどうにか王都を脱することに成功した。
今ではもう「元」の付いてしまった上官のことを考えれば、途中で捕まるようなことだけは絶対に避けなければならなかったし、あんなに偉そうな口を叩いて飛び出してきた身では尚更そうだった。ただ、だからといって簡単に振り切ってしまえるほど敵も甘い相手ではなくて、当然ながらとても無傷でというわけにはいかなかった。さすがに騎士軍将の名は偉大で、その傍らにいただけだったわたしも思ったよりずっと顔が売れていたらしい。見たこともない相手から頭に「反逆者」と付いた名前を呼ばれた回数は、数え切れないくらいだった。
そうしていくらか手傷を負いながらも、運良くわたしは生きてセシリア将軍の旗下までたどり着くことができた。初めはひどく驚いた様子をしていた将軍だったけれど、彼女はすぐにいつもの優しい笑みを浮かべて「来てくれて嬉しいわ」と言い、そして何も聞かずにわたしに一部隊を任せてくれたのだった。
けれど、この時にはもう反クーデター派は劣勢に追い込まれつつあった。
ベルンから無尽蔵とも言える兵力の供給を受けられる敵軍とは違って、わたしたちの戦力は削られていく一方だった。個々の能力なら決して相手に引けは取らないし、こちらには軍略に長けたセシリア将軍の指揮もある。それでも日を追うごとに広がっていく数の差を埋めることはできなかったのだ。
じりじりと後退を迫られ、とうとう大陸の西端まで窮追されたわたしたちは、結果から言えばエトルリアとベルンの連合軍の前に敗れ去ることになった。
仕方がなかった、なんて言い方はあまりしたくはないけれど、まさかベルンの国王自らが――それも神将器のひとつと言われる大剣を手に、直々に攻撃の指揮を執ることになるだなんて誰が予想できただろう。セシリア将軍を一撃で打ち破ってしまうほどの圧倒的な力を前に、大将を失って文字通り総崩れとなったわたしたちには為す術もなかった。それに、補給線なんてもうとっくに断たれていたのだから、いずれにしても籠城戦は長くはもたなかっただろうと思う。
リキア同盟軍の助けがなければ、将軍もわたしも今頃はまだベルンの捕虜にされていたか、あるいは本国に引き渡され、逆賊として刑に処されていただろう。
壊れかけたエトルリアに差した一条の光を、この目にすることができないままに。
永遠に失われてしまったと思っていた、けれどそれさえあればどんな未来だって望めるような、そんな希望とでも呼ぶべきもの。
それを前にしたとき、わたしは自分が夢を見ているのではないかと思った。だって、そんなことは絶対にあり得ないはずだったのだから。
けれどもそれは確かな現実で、セシリア将軍と懇意の間柄であるという同盟軍の年若い将は、わたしたちを救ってくれたことなんて比にならないほどの信じられないようなものをエトルリアにもたらしてくれたのだ。
それは、あの人にとって最も大切だったものだった。
その光は、あの人の心をいとも簡単に掬いあげてしまった。
そうして。
信じるべきものを取り戻したあの人は、今やわたしと同じ軍に身を置いている。
王都から近からず遠からずの距離に建てられた砦で、リキア同盟軍は来たるべき決戦に向け英気を養っていた。
この辺りの町にはエリミーヌ教の信徒が多いということもあって、クーデター派の弾圧にはかなり苦しめられていたらしい。駐屯軍を追い払った同盟軍を人々は喜んで迎え入れ、かねてから反ベルン派であったという領主は快くこの砦を貸し与えてくれた。
これからわたしたちは、アクレイアを攻めることになる。
国の命運を賭けた一戦を控えて、エトルリアの人間はきっと誰もが期待と不安とで落ち着かない日々を過ごしていることだろう。
王都ではダグラス将軍が守りを固めている。彼ならば最後まで陛下への忠義を貫き通すだろうから、戦いは避けられないのかもしれない。その前に陛下の安全さえ確保できればあるいは、とは思うけれど、王宮の攻略が長期化すればするほどそれは難しくなるだろう。失われたはずの希望が生きていたことを知り、そして父子の再会を果たされる前に、もしも陛下が害されるようなことになってしまったら本当にやりきれない。
そんな結末を絶対に避けるためにも、次の作戦ではわたしたちエトルリア軍人の動きが肝要であることは間違いなかった。王都をよく知るわたしたちが、戦況を見ながら意思疎通をし合って互いに連携していくこと。それが、今度の奪還作戦における大きな鍵になるんだろう。
わたしにだって、そんなことは分かっていた。
それでもわたしは、未だにあの人と――パーシバル将軍と顔を合わせられないままでいたのだった。
あの人がリキア同盟に加わった後、以前のわたしの職位を知っていたロイ将軍は当然にあの人とわたしを引き合わせようとしてくれたのだったが、わたしはそれに対して頑なに首を振った。セシリア将軍が口添えをしてくれたこともあって、ロイ将軍もなんとなく事情を察してくれたのだろう。そんなことがあったのもそれっきりで、今度は逆にわざわざエトルリアの軍勢とは離れた天幕や部屋をわたしに与えてくれたり、編成においてもわたしをセシリア将軍の部隊に置いたままにしてくれた。そこまで気を遣わせてしまうだなんて、本当に申し訳なくて情けなかったけれど、大した迷惑にはならないからと言ってくれる厚意に結局わたしは甘え続けていた。心の中には、溶けない大きな塊を残したままにして。
近付く決戦への不安も相まってか、ここ数日は特に、悶々としたものが自分の中で渦巻いていた。
不安の方はともかく、それ以外のものについては完全に自業自得なのだから、どうしようもないのだけれども。
それでも少しでも気分を変えられたらと、この日わたしは人目を避けつつ屋上にある展望台へと足を運んでいた。砦の周囲を一望できるこの場所にはもちろん常に見張りが置かれているのだけれど、幸か不幸か今日の当番はどうにも緊張とは無縁の人物だったらしい。うつらうつらと船を漕いでいた彼に交替しましょうか、と声をかければ、彼は謝辞を述べるなり嬉々として階段を降りていった。
砦門の前で、おそらくロイ将軍の側近であろう騎士たちが訓練をしている様子が小さく見える。何とはなしに上方へ顔を向ければ、掲げられたエトルリアの旗が晴天の下で風にはためていた。
国に手向ったのか、と聞かれれば、そうではないとはっきり言うことはできる。
けれどもわたしはあの人に背いた。その事実だけは、どうしたって変えることはできない。
あの人に合わせる顔なんて、もうあるはずがなかった。
「ナマエ殿、こちらにおいででしたか」
不意に、背後から声を掛けられた。驚いて振り返り――そしてそこにいた声の主に、わたしはいっそう目を瞠る。
「殿下!? お一人でこのような所へ……!」
すかさず人差し指を口に立てられてはっとした。
殿下がご存命だということは、まだ周りに知られてはいけないのだ。たとえそれが味方であれ、どこからか情報が漏れてしまっては再び殿下のお命が狙われかねない。今はまだ真の姿は隠しておく、という吟遊詩人の意図を、その正体を知る数少ない人間は皆汲み取っていた。
「し、失礼しました……エルフィン殿」
慌てて言い直せば、にこりと微笑が返ってくる。どちらかと言えば笑われてしまったのに近いのだろうけど、旅芸人の衣装を身に纏ってはいても生まれついた気品というものは内面から溢れていて、この方の前ではつい姿勢を正してしまうのだ。
「随分深く考え込んでおられたようですね」
「……不注意でした。申し訳ありません」
呼び方もそうだけれど、それ以上にわたしは気を抜きすぎていた。殿下がおいでになる足音は、聞こえていたのかもしれないけれど完全に意識の外にあった。もしも近付いてきたのが敵だったとしたら、今頃はもう物言わぬ身になっていたかもしれない。わたしにはさっきの見張り番を呑気だと笑うことはできないようだ。
「そういうつもりで言ったのではないのです。私があなたにお会いしてからずっと――いえ、おそらくその前からなのでしょう、あなたはいつもどこか思い詰めているように見えましたから」
殿下は、笑みを崩さないままでそう言われた。
それは、中身だけを聞けば何の変哲もない気遣いの言葉のようではあった。
けれどもわたしの頭は警鐘を鳴らした。びく、と心臓が軽く跳ねたのを感じる。殿下がそれを口にされた瞬間に、今までの空気は霧散してしまったようにわたしには思われた。
この方は、単にわたしを案じていらっしゃるだけではない。
「……ご心配には及びません。それよりも、わたしに何かご用があったのではないですか?」
「ええ、そのことでお伺いしたのです」
「……そのこと?」
「あなたが思い詰めている、と」
「……」
どうやら逃がしてくださるつもりはないらしい。
セシリア将軍やクレイン殿がわたしに気を遣って、この件に関してあえて触れないようにしてくれていることは分かっていた。そうしながらも、彼らが実のところは何かを言いたそうにしていたということもまた、分かってはいたのだけれど。それでもわたしは気付かないふりを決め込んでいた。
本当は、いつ窘められてもおかしくはなかったのだ。
「……パーシバル将軍のこと、ですね?」
――それにしても、相手が悪すぎる。そんな不敬なことを考えながら、わたしは諦めて殿下の言葉に頷いた。
「あなたはエトルリアで、パーシバル将軍の筆頭副官を務めていらした」
「……はい」
「そして、先のクーデターの折に、彼の隊を離れたと」
「……その通りです」
ひとつひとつ確認されていく事実に、顔を伏せながらも肯う。
あの人の元を離れた日の光景が鮮明に浮かんできた。それもそのはずだ、実際にあれからそう長く時は経っていないのだから。
「……確かにあなた方は、一時は道を分けたかもしれません。しかしご存知の通り、将軍は今や我々の同志として力を貸して下さっている。……あなたは、彼の元へは戻られないのですか?」
じわじわと追い詰められることを覚悟していただけに、こんなに早々と核心を抉られるとは思わなかった。
いくらか虚を衝かれたような感じはしたけれど、殿下がそのつもりならわたしも腹を括って答えなければならない。納得していただけるかどうかは、別の話だけれど。
「……戻れません。わたしにはもう、そんなことはできないのです」
「……なぜ?」
「……わたしは独りよがりの義憤を振りかざしてあの方を責めました。綺麗事ばかりを並べ立てて、あの方を難詰しました」
いったん口を開いてみれば、思いのほか次々に言葉が溢れてくる。
もしかしたら、わたしはずっと誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。まるで懺悔でもするかのような心持ちだった。わたしは敬虔な神の信徒でもないのに。
「わたしの取った行動は、あの方の信念を否定することと変わりありませんでした。それでもわたしは、あの方よりも自分の道を選びました」
わたしにあの人の心は変えられなかった。心を変える、だなんて発想自体がそもそも傲慢なのかもしれない。そうしてわたしはあの人に背を向けた。あの人に背くだけの正しさがその先にあると信じた。大切なこの国を思って、思うからこそ同胞に剣を向けて戦ったこと、今でもそれが間違いだったとは思わない。
「そこに正義があると信じていたからです。そして、選んだからにはその道を最後まで貫かなければいけなかった。……それなのに、」
思わない、けれど。
「それなのに、わたしは後悔したんです」
声が震えた。
できることなら認めたくなかった感情は否定のしようもなくて、言葉にしたそばからその重さに押し潰されそうになる。
「今まであんなに目を掛けてくれた人を突き離して、そうまでして自分の心を通そうとしたくせに、いざ離れてみたら、わたしは後悔してしまったんです」
気付けばあの人の姿を探していた。
そこにあるはずのない背中を、わたしはいつも探していた。
国のために民のために戦った反クーデター派は何も間違ってはいない、正しかった、それは疑いようのない事実だ。ここには殿下が、セシリア将軍が、そして今ではあの人もいてくれる。わたしの選択が確かにエトルリアを救う道につながっていたということは、それが何より証明してくれている。
あの人に背くだけの正しさは、確かにそこにあった。けれどそんなものよりも、わたしが本当に求めていたのはあの人の存在ただそれだけだったのだ。
たとえ間違いだったとしても、過ちだと初めから分かっていても、それでもあの人と共にあることを選べばよかった――そんな風に思うことをわたしは止められなかった。国の行く末を案じて飛び出したはずが、わたしは来る日も来る日もあの人のことばかりを考えていた。
「彼の元を離れるべきではなかったと?」
「……はい。だって、あの方の人柄も立場も、わたしには分かっていたはずだったんです」
戦乱で荒れてしまった地に暮らす民を思って、心を痛めるような人だった。
ダグラス将軍にも負けないくらいに、厚い忠誠心を持った人だった。
自分の側に義がないことは、あの人にだって当然分かっていた。それでも、いかに不本意な命令を受けたとしても、あの人は何よりもまずエトルリアの『騎士軍将』だったから。誰より自分に厳しいあの人が、私情でそれを曲げられるわけなんかなかったのだ。
「『騎士軍将』としてのあの方を理解するのも支えるのも助けるのも、全てわたしの役目でした。他でもなく副官のわたしが、一番にそれをしなければいけないはずだったんだって――……」
なのに、わたしはあの人を裏切った。
そんな恩知らずを何も言わずに送り出してくれた、わたしの意思を尊重してくれたあの人の心までも無下にして、わたしは今もどうしようもない後悔に溺れている。
「それは、今からでも遅くないのではないでしょうか」
わたしはきっぱりと首を振った。
「いいえ。もういいんです。あの方にわたしはもう必要ありません。……あの方は、最も大切なかけがえのない存在を取り戻されたのです」
「……」
「あの方はあの方の信じる道を進めるようになりました。だからいいんです。わたしがお側にいても、きっとまた同じように煩わせてしまうだけですから」
叶うことなら、その背をずっとずっと追いかけていたかった。
けれどもあの人に足枷は要らない。あの人の歩みを止めてしまうくらいなら、わたしはもう走りたくなんかない。
「……本当にそう思うのですか?」
これまで、わたしの出来損ないの告解を静かに聞いてくださっていた殿下が、ふと不思議そうに首を傾げられた。
その問いは、言葉を促すような、あるいは意を質すような、さっきまでのそれとはどこか様子が違う。
「……エルフィン殿?」
わたしの呼びかけにはお答えにならず、殿下はゆっくりと後ろを振り向かれた。そしてそのまま、何もないはずの階段塔の壁に向かって、言葉をお続けになったのだった。
「私には同意しかねますが……いかがですか、パーシバル様?」
――心臓が、止まるかと思った。