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 心臓が、止まるかと思った。
 視覚と聴覚とが伝えてくる情報を、わたしの頭は受け入れることを拒否しようとした。
 塔の陰から現れたのは、そして一歩ずつ近づいてくるのは確かにわたしが目を逸らし続けていたその人で、殿下の御髪とはまた違ったその鮮やかな黄金色も、深い琥珀の双眸も、全てがわたしの知っている彼の――パーシバル将軍のもの、だった。
 けれどもこれは夢なのだ。わたしはきっと白昼夢を見ているのだ。
 わたしはもうこの人の前にも後ろにも立つことはないのだと、そう決めたんだから。
 だから、これは――。

「……さて。それでは、後はお二人でお話し下さい。私は失礼いたしますゆえ」
 言葉も失くして立ち尽くしていたわたしの耳にそよ風のような声が届いて、その瞬間から電撃が走ったように頭が再び回転を始める。
 この光景は夢ではなく、現実に起こされた策士の謀りごとだった。そしてそうと理解した途端に、わたしは敬意も仮初めの名も忘れて、咎めるような声を出していた。
「でっ、殿下……!!」
「エルフィン、ですよ」
 呆気にとられるわたしに二の句を継がせないまま、殿下は将軍と入れ替わるようにして階下へと姿を隠されてしまった。
 残されたわたしたちの間に、何とも言えない空気が流れる。
「あ、あの……」
 先に沈黙に耐えられなくなったのは、わたしの方だった。
「今の話は、その……最初、から……?」
 将軍は決まりが悪そうに、ああ、と言う。
「……すまない。私にそのつもりは無かったのだが、王子がこのようにせよと……」
 彼のこんなに歯切れの悪い物言いは初めてかもしれない。切れ者と称される殿下のご慧眼に感服を覚えることは何度もあったけれど、それをこんな形で味わわされることになるだなんて。いくらなんでも今度の策はあまりに乱暴だったのでは――と恨めしい気持ちを抱きかけて、そもそもの種を播いたのはわたし自身なのだということを思い出す。そう考えれば、これも一つの報いなのかもしれなかった。
「……とにかく、壮健そうで安心した」
 告げられたその言葉に、呼吸が詰まりそうになる。
 驚きと焦りに飛ばされかけていた感情が一気に押し寄せてきて、胸が締め付けられるように苦しい。
「……いえ……」
 わたしは小さく息を吐いた。
 何もかも聞かれていただなんて、本当に穴があったら入りたいような思いではあったけれど、それならそれで話は早い。
 アクレイアでの決戦を前にして、彼の中にわだかまりを残したままにしておくことに気が咎めていたのも確かなのだし、こうなってしまった以上はもう綺麗に片を付けてしまおう。それがきっと、彼のためにもなるだろうから。
 将軍、と彼に呼びかける。
 その目は真っすぐにわたしを見返した。
「数々の不義理、申し訳ありませんでした。将軍がこちらに加わられたと知っていながらご挨拶もせず、それどころか避けるような真似までしてしまって……」
「……」
「そのせいで殿下や周りの方々にまでご心配をお掛けすることになってしまいましたし、その……本当に、申し訳ありません」
 わたしを見つめたまま、将軍は何も言わない。
 相変わらず感情の出ない顔は、その向こう側にある考えを読ませてはくれなかったけれど、今のわたしにとってはそれが逆にありがたかった。
「許して頂けるだなんて思っていません。……でも、わたしの意思は、先ほど殿下に申し上げた通りなんです」
 この人に背いたことを、わたしは死ぬほど後悔している。
 でもだからこそ、わたしはもうこの人の側にはいられないのだ。
「……すぐにでも、というわけにはいきませんが、国が落ち着いたら一兵卒からやり直そうと思っています」
 呆れられても仕方がないのかもしれない。詰られたって仕方がないのかもしれない。
 だけど今のままでは、あなたの隣に立つことなんてとてもできないから。
「ですから……、もしほんの少しでもこの身を哀れと思ってくださるのなら、どうかわたしのことは捨て置いてください。この通り、お願いします」
 だからそれが、わたしの偽らざる思い、だった。

「ナマエ」
 首を垂れたその上に、将軍の声が落ちてくる。
 ざわざわと心が波立った。彼に名前を呼ばれただけで、どうしていいのかが分からなくなる。
「……もう良いだろう。我々には、互いに譲れないものがあった。それだけの事だ」
 違う、そうじゃない、だってそれは、わたしが悔やまずにいられたらの話だ。わたしに譲れないものなんてなかった、あるとすればそれは、目の前にいるたった一人の人だけだったのだ。
 爪先を見つめるばかりのわたしに、将軍はさらに続ける。
「ロイ殿に話はつけてある。私の指揮下に戻れ」
 わたしはたまらず顔を上げた。
 注がれる眼光の強さに、思わず飲み込みかけた言葉を必死で手繰り寄せる。
「……無理です、できません。お願いです将軍、わたしの話を聞いていたのならどうか、」
「確かに聞いてはいたが、それを容認するとは言っていない」
「そんなことをおっしゃらないでください……! わたしは自分が恥ずかしくてならないんです!」
「ナマエ、これは上官命令だ」
 彼がこんな風に上司の権限を持ち出そうとすることなんてなかったのに。
 それに今ではもう、わたしはこの人の部下ではなくなったのに。
「でも、わたしはあなたを……!」
 それ以上は口にするな、とでも言わんばかりに両肩を掴まれて、先の戦いで出来たばかりの傷がずきずきと疼く。
 彼の視線が、痛いほどに刺さっている。
「良いのだ。お前の心はよく分かった」
 そして。
 無事で良かった、と。何かに耐えるように少しだけ眉を歪めながら、将軍は静かにそう繰り返した。
「……悔やんだというのなら、それは私とて同じだ」
 呟かれる声には、どこか自嘲気味な響きがあった。
 悔やんだ、というのは何をだろう。宰相の側についたことを、だろうか。もっと早く王都を離れていればよかった、ということだろうか。
「今更お前の選択をどうこう言うつもりはない。あれは信念の問題だったのだ」
 陛下の御身を第一とするのか、私心を捨て与えられた命にひたすら従順であることか。あるいは反逆者の汚名を着ようとも、国に仇なす者を討ち取るために戦うのか。クーデターという未曾有の事態に直面したあのとき、誰が何を思いどう行動したのか――それは、軍人としていかなるものを最大の是とするかという、個人の志の問題だったのだと将軍は言う。わたしは結局、そのどれも選べなかったけれども。
「お前にはお前の理想があったのだろう。それは私が口を出すようなものではない。……だからあの時も、私はお前を止めることはしなかった。お前のことだ、そう簡単に倒れたりはすまいとも思っていたからな」
 だが、と彼は言葉を切った。
 小さく息を吸う気配にわたしはつい身構える。心がまた、ざわざわと騒ぎ始める。
「後になって、それは誤りだったのかもしれないと思った。やはり無理にでも止めるべきだったのではないかと、そう――」
 ゼフィール王が城を攻撃したと聞いた時、身が凍るような思いをしたということ。
 セシリア将軍とわたしがリキア同盟軍に加わったと、つまり生きているのだと報せが入るまでは、本当に落ち着かなかったということ。
 それを知って安堵した途端に、今度はリキア同盟討伐の命が将軍に下されたこと。
 少しずつ吐露される心情に、わたしは言葉を返すこともできなかった。
 だって、わたしはこの人を裏切ったのに。それなのにこの人はずっとわたしの身を案じて、わたしを行かせたことを悔いて、わたしのために、その心を痛め続けて。
「……お前と剣を交えることにならずに済んで、本当に良かった」
 パーシバル将軍、と、その名を呼びたいのに声さえも出てこない。
 わたしの肩を掴んだままの手が微かに震えている。そこにある傷なんかじゃなくて、もっと別のところが悲鳴を上げたくなるくらいに痛い。この人は今どれだけその手に力を加えているのかにも気付いていない、それほどまでにこの人は。
「王子にお会いするより先にお前と戦場で相見えていれば、そうであれば私はお前を斬らねばならなかった」
 ――私は、それが恐ろしかった。
 絞り出すような声が耳を震わせたその時から、わたしはもう立ってはいられなくなっていた。

「ごめんなさい……ごめんなさい……っ!」
 崩れかけた身体を将軍は咄嗟に支えてくれて、それでも足に力が入らないのが分かったのか、そのままゆっくりと地面に座らせるように下ろしてくれる。
 その間もずっと、わたしは同じ言葉を口にし続けた。他に言うべきことなんて、何ひとつ見つからなかった。
「ナマエ……お前はそれほど……」
 これ以上後悔のしようなんてないと思っていたはずだったのに、底が見えないくらいにわたしはあの日の過ちを呪って、呪って、壊してしまいたくなるほど呪っても、それでもまだ足りない。できることなら消えてしまいたいくらいで、けれど目の前の人はそれを望まないのだと言うから、だからせめて、この人の痛みが全部自分に降りかかればいいのにと思った。
「わたし、わたしは本当に、なんてことを……っ」
 そうしてまたごめんなさいと繰り返すわたしに、将軍は少しだけ困ったような顔をしながら首を振る。
「もう良い。良いのだ。全ては済んだことだ」
 この人がこんなにも心を砕いてくれていると、知っていたなら。
 本当はこれ以上彼を困らせたくなんかないのに、頬を流れるものはどうにも止められそうにない。
「お前にも私にも、迷う理由などもう無いはずだ」
 そんなわたしの手を、パーシバル将軍はそっと拾い上げてくれたのだった。

 触れた手のひらはあまりに温かくて、余計に涙が溢れてくる。
 けれどもその温度を知った今、迷う理由はないと言った彼の言葉にわたしは頷くことができるのかもしれない。
 進むべき先を、照らし出してくれる道標。
 彼にとってのそれが殿下なら、わたしの光はきっと。
「……傷が増えたな」
 労しげな眼差しが、手の甲へと落とされる。
 そこにある小さな刀傷が前まで存在しなかったということを、どうしてかこの人は覚えていてくれるのだ。

 これから何度だって、わたしはこの罪を悔やみ続けるだろう。
 戒めと呼ぶにはあまりにも醜くて汚くてどうしようもないものを、わたしはずっと抱えたままで生きていくんだろう。
 ――それでも。
 もう一度共に戦うことが許されるのなら、わたしはあなたのためにこの剣を振るおう。あなたと一緒に、あの日のエトルリアを取り戻そう。
 追い続けていたその背を、今度こそ見失ったりしない。もう二度と、誰より大切な人を苦しませたりはしない。

 あなたさえそこにいてくれるのならば、わたしに怖いものなんて何もありはしないから。

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夢小説企画「With us」様への参加品
企画提出:2011.10.22  再録:2012.07.08

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